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章節 9: 第9章

篠原拓也の瞳孔は血走っていた。

彼は伊藤さんが差し出したペンをじっと見つめた。

医者の催促の声が魔音のように彼の耳に響き渡る。

「篠原さん、患者は大量出血していますよ!手術しないと命がありません!」

父の臨終の様な言葉、母の悲痛な叫び声、それらが次々と彼の脳裏で炸裂した。

尊厳、財産、未来……

両親の命の前では、これらはすべてあまりにも滑稽に思えた。

彼は突然ペンを掴み取った、手は震えて形にならない。

紙の上に耳障りな引っ掻き傷のような線が残った。

「署名する!」

彼は叫んだ、声はかすれて荒れていた。

契約書の一言一句、もう見る気も起きなかった。

全財産放棄。

生まれてくる子供に対するすべての権利の放棄。

彼は乱暴に自分の名前を書いた。その歪んだ文字は、今の彼の惨めな人生を映し出していた。

彼は「パン」という音を立ててペンを床に投げ捨てた。

全身から力が抜けたように壁に寄りかかった。

「お金……早く金を……父と母を助けてくれ……」

伊藤さんは無表情で協議書を拾い上げ、確認した後、電話をかけた。

「契約書に署名済みです。すぐに全ての医療費を支払ってください」

言葉が終わると同時に、会計窓口から確認の声が聞こえてきた。

医師と看護師たちはすぐに移動用ベッドを押して、救急室に駆け込んだ。

廊下は再び静寂に包まれた。

拓也は冷たい壁に寄りかかり、ゆっくりと床に座り込んだ。

彼は負けた。完全に敗北し、何も残っていなかった。

彼が果てしない絶望に浸っているとき。

鮮やかなハイヒールの音が聞こえてきた。

彼は急に顔を上げた。

私は、遠くない場所で、二人のボディーガードに守られながら、彼の方向にゆっくりと歩いていた。

私の視線は前方を向き、表情には他人事のような静けさがあった。

片手でまだ平らな自分の腹部を優しく撫でていた。

あの高慢な女王のような態度に、彼は自分が地面の泥のように感じた。

それでも、狂おしいほどの卑屈な希望が彼の心の底から湧き上がってきた。

彼女が来た、結局は彼女の心も軟化したのではないか?

「美咲……」

彼は苦労して床から立ち上がり、なりふり構わず私に駆け寄った。

ボディーガードはすぐに彼を阻止した。

私は彼の前、二歩離れたところで立ち止まった。


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