松尾彰人(まつお あきと)?!
あの男が松尾彰人だって?!
道理で警察に行こうかと言ってたわけだ。どう脅してもびくともしなかったのも当然か。
この男は謎めいた存在で、美しい容姿と優れた才知を持ち、世間では神のような存在と噂されている。
どれだけ格好良くても、所詮は人間の皮を被った獣、人の弱みに付け込む卑劣な男よ。
秦野笑美はベッドから起き上がり、白いシーツに滲んだ鮮やかな赤を見つめた。胸も頭もさらに混乱していく。
彼女が「夫がいる」と言ったのは嘘ではなかった。確かに結婚して二年になるが、結婚してから今まで、自分の夫の顔を一度も見たことがなかった。
「栄村家の二番目の若奥様」という肩書は聞こえがいいけど、町中の人が知っているように、栄村家の次男は普通の人ではなかった。
生まれつきの障害があるとか、顔つきが恐ろしいほど醜いとか言われている。嫁いだ時には「美女と野獣」のような情景を想像したものだが、不思議なことに、最初から最後まで自分の夫に会ったことがなかった。
ときには、この人は本当に存在するのかさえ疑った。
でも、どんなことがあっても、栄村家が父の会社を救ってくれた恩は忘れられない。夫がどうであれ、嫁いだからにはこの結婚に誠実でありたい。
なのに、こんなことが起きてしまった。
後ろめたさ、自責、後悔、そして憎悪――。
ドレスは破れていたけど、どうにか着られる状態。出ていく前に、床に散らばったお金を拾い集めた。誰と張り合うにしても、お金を無駄にするわけにはいかない。
身体の痛みをこらえながらホテルを出て、タクシーで自宅へ直行した。
家に着くとすぐにシャワーで身体をゴシゴシ洗った。まるでそのことで、身にまとった屈辱まで洗い流せるかのように。
「ブーブー」着信音と共に携帯が振動し、執事からの催促の電話だった。
今日は栄村家の先祖供養の日で、栄村家の二番目の若奥様として、彼女は当然欠席できなかった。
鏡に映った全身のアザを見て、彼女はそれを隠すための黒のロングドレスを選んだ。
栄村家は子孫繁栄の一族で、栄村企業は全国に事業を展開する大企業。ビジネス界でも重要な地位を占めている。
だからこそ、この家には隠された矛盾も多く、水面下の権力争いは宮廷劇さながらだ。
栄村邸は郊外に位置し、別荘区は約1000平方メートルの敷地を占めていた。笑美が到着した時には、栄村家の老若男女がほぼ揃っていた。
栄村家の次男の若奥様という肩書きのおかげで、表向きは皆それなりの敬意を示してくれる。
「笑美、ご家族皆さんがお待ちですよ。どうしてそんなに遅れたの?」葉山咲良(はやま さくら)が真っ先に歩み寄って挨拶し、視線を上下に走らせて笑美を観察した。彼女の体から何か手がかりを見つけようとしているようだったが、笑美の長いドレスがすべてを隠していた。
咲良を見るたびに、飛びかかって平手打ちをしたくなる。
昨夜の出来事は、考えなくてもこの女の仕業に違いない。普段は連絡もよこさないくせに、昨夜だけ急に親しげに酒を勧めてきたんだ。
あのお酒のせいで、彼女は結婚後に初めて他の男と体を許してしまったのだ。
笑美は深呼吸し、深い笑みを浮かべて咲良を見た。「昨夜のお義姉さんのご好意のおかげですよ。」
咲良は赤い唇を曲げ、笑美の耳元に近づいて言った。「あなたは運が良かったわね。逃げ出せたなんて。さもなければ、今ここで私と話す資格すらなかったでしょうね?」
笑美は黙って考えた。つまり松尾彰人は咲良の計画には入っていなかったのか?咲良は実際に何が起こったのか知らないのだろうか?
そうだわ、彼女が私を貶めたいなら、わざわざあんな優秀な男を用意するはずがない。
「残念ですね。今ではお義姉さんの狐狸の尾はもう丸見えです。これからこっそり悪さをしようだなんて、無理ですよ。」
「ふん、あなたが私と渡り合うにはまだ青いわ。あなたを栄村家から追い出すのは時間の問題よ。」
「お義姉さん、まだ正式に栄村家に入っていないのに随分と傲慢ですね。今日は栄村家の先祖供養の日ですが、あなたにはここにいる資格ないんじゃないですか」笑美はそう言い終えると、咲良の青ざめた顔を無視して、ハイヒールで彼女の前を通り過ぎた。