第5話:裏切りの現場
[綾崎詩音の視点]
私は翡翠の腕輪を握りしめたまま、会場の隅に身を寄せた。手のひらに食い込む痛みが、現実を突きつけてくる。
同じ翡翠。
怜士は私と玲奈に、同じ石で作ったアクセサリーを贈っていた。氷月家に代々伝わる腕輪だと言っていたのに。
「詩音?」
怜士の声が背後から聞こえた。私は慌てて腕輪をクラッチバッグにしまい、振り返る。
「どうしたんだ?顔色が悪いぞ」
「少し疲れただけよ。大丈夫」
私は微笑みを作る。怜士は安心したような表情を見せたが、すぐにスマートフォンが鳴った。
「すまない、ちょっと電話に出る」
彼は私から離れ、トイレの方向へ歩いていく。
私は後を追った。
トイレの入り口で、怜士の声が聞こえてくる。
「ああ、裏庭で待ってる」
裏庭。
私は会場の構造を思い出した。この建物の裏には、小さな庭園がある。普段は使われていない、人目につかない場所。
怜士が電話を切り、トイレから出てきた。私は慌てて身を隠す。
彼は周囲を見回し、会場の奥へと向かっていく。
私は心臓の鼓動を抑えながら、後を追った。
会場の裏庭では、玲奈が待っていた。黒いドレス姿の彼女は、月光の下で妖艶に微笑んでいる。
「遅かったじゃない」
「詩音がいたから、なかなか抜け出せなかった」
怜士は玲奈に近づき、彼女の腰を抱き寄せる。
「あの子、何も疑ってないの?」
「ああ。詩音は俺を信じきっている。純粋すぎるんだ」
二人は激しく抱き合い、情熱的なキスを交わした。
[綾崎詩音の視点]
私は倉庫の窓の隙間から、その光景を見つめていた。
心臓が、鷲掴みにされたように痛んだ。
「この前、ベッドから起き上がれなかったって言ってたじゃない」
玲奈の甘い声が、夜風に乗って聞こえてくる。
「あの時のメイド服、また着てくれるか?」
怜士の声が、欲望に満ちていた。
「今夜も会えるの?」
「ああ。詩音は生理痛で早く寝るって言ってた。完璧なタイミングだ」
私は唇を噛み締めた。血の味が口の中に広がる。
「詩音にバレたらどうするの?」
玲奈が心配そうに呟く。
「大丈夫だ。あいつは何も疑わない。俺の愛を信じきってる」
怜士は玲奈の顎を持ち上げ、再びキスをした。
私は想像以上の現実に、息ができなくなった。
二人が別れた後、私は倉庫から出た。足が震えて、まともに歩けない。
「詩音!」
怜士の声が背後から聞こえた。彼は汗をかきながら、心配したふりをして近づいてくる。
「どこにいたんだ?探したぞ」
私は彼の顔を見上げる。唇に、小さな傷があった。
「怜士、唇に傷があるわ」
怜士の表情が一瞬強張る。
「これか?口内炎が破れただけだ」
嘘。
私は微笑む。
「私は向こうの庭を散歩していたの。星が綺麗だったから」
怜士の表情に、安堵が浮かんだ。
「そうか……心配したよ」
彼は私の手を取る。その手が、微かに震えているのを感じた。
パーティーが終わり、私たちは怜士の実家へ向かった。
「母さんが、今夜は泊まっていけって」
「でも、私の着替えが……」
「大丈夫。母さんが用意してくれてる」
怜士は有無を言わせず、私を実家へ連れて行った。
客間のベッドで、私は眠ったふりをしていた。
怜士は楽しそうにスマートフォンをいじっている。画面の光が、彼の顔を照らしていた。
「母さんと話してくる」
彼は部屋を出て行った。
私は静かにベッドから起き上がり、後を追う。
書斎の扉の前で、怜士の声が聞こえてきた。
「母さん、今日は危なかった」
「何があったの?」
怜士の母の声。
「詩音が玲奈と顔を合わせたんだ。それに、翡翠のアクセサリーのことも……」
「あなたって本当にバカね。同じ石で作るなんて」
私の血が凍りついた。
怜士の母は、すべてを知っていた。
「でも詩音は何も気づいていないようだった」
「当然よ。あの子は純粋すぎるの。でも油断は禁物。もしバレたら、氷月家の名誉に関わるわ」
「分かってる。結婚式まで、あと7日だ」
「その後はどうするつもり?」
「玲奈とは別れる。詩音との結婚生活を大切にする」
「嘘おっしゃい。あなたがあの女を手放すわけないでしょう」
怜士の母の声に、呆れが混じっていた。
「とにかく、詩音にバレないよう注意しなさい。あの子の実家は資産家よ。結婚すれば、氷月家にとって大きな利益になる」
私は扉にもたれかかり、震える手で口を押さえた。
怜士がしていたことは、怜士の母はずっと知っていたのだ。そして、彼女は息子と共に、私を騙していた。しかも、怜士の母だけでなく、周りの人たちも怜士と玲奈の関係を知っていたのだ。
私は、皆に騙されていると、愚かにも信じていた。
騙されていたのは、私だけだった。
怜士から捧げられた愛が本物だと信じていたのは、私だけだったのだ。
私は客間に戻り、布団の中で身を震わせた。
涙は、もう出なかった。
代わりに、心の奥底で何かが燃え上がっていた。
復讐への炎が。