新任監獄長として初めての食事配膳を終え、時田菫はほっと胸をなで下ろした。
監獄長用の執務区へ戻ると、彼女の予想していたような監視モニターは一切なく、代わりに壁に並んでいるのは数個の真っ赤な警報機だった。
――なるほど。ここに収監されている「貴人たち」は表向きは囚人扱いだが、実際には罪人として監視されているわけではない。監獄の設備はあくまで彼らの精神力の暴走を抑えるためのもの。牢を出なければ問題はないのだ。
椅子に腰を下ろした時田菫は、ふと何かを思い出し、急いで星網で「斎藤蓮」の名前を検索した。
――やっぱり……。見覚えがあると思ったら当然だ。
斎藤蓮。帝国の最年少にして最強クラスの少将。彼女が転生したこの小説の中でも、ほんの一行だけ触れられていた存在。ヒロインが心の底から慕う英雄であり、星間で最も人気の高い雄。
だが同時に、原作では悲しい結末が書かれていた。彼は精神力SSS級でありながら、あまりに強大すぎる精神力を慰める雌に恵まれず、ついには精神崩壊で命を落とす――ヒロインの心に永遠に残る「高嶺の花」として。
牢の中で見たあの堂々たる白獅子を思い浮かべ、菫の胸にはやりきれない思いが広がる。
雄が獣形に退化するということは、余命がそう長くない証拠。精神崩壊の淵に立たされ、いつ死んでもおかしくない状態なのだ。
そして、この監獄に収監されている者たちは、誰もがその段階にあるように見えた。
――私なんかじゃ助けられない。小説の中ではただの「モブ」で、挙げ句にあっさり死ぬ予定の端役。力になれるわけもない。
それでも彼女は心を決める。せめて現任監獄長として、自分にできることだけはしよう。少しでも彼らが穏やかに過ごせるように。
菫は気持ちを切り替え、監獄長マニュアルを開いて読み始める。しかし、びっしりと書き込まれた注意事項と、やたらと目立つ赤字に目が泳ぎ、やがて文字が催眠術のように揺らぎ始め――気づけば瞼は閉じていた。
静まり返った執務室。その頭上で、菫の髪がわずかに揺れる。ぽん、と青緑色のキノコがひとつ生え出た。手のひらサイズのそのキノコは、むくっと身を揺らし、軽快に菫の頭から飛び降りると、ひょいひょいと跳ねながら監獄の奥へ進んでいった。
一方その頃、監獄区画では各獣人が朝食を取っていた。
木村宇吉は人の姿に戻り、穏やかに食事をしている。彼はこの中では比較的精神崩壊が軽度で、たまに人型を保てるのだ。
「しかし……あの新しい監獄長、ちょっと抜けてるよな」彼は口元を歪めて笑い、続ける。
「だが目は確かだ。俺の美を理解できるとはな」
相変わらずの自惚れに、他の面々は苦笑い。慣れっこのため誰も反論しない。ただ中村夏帆が呟いた。「まあ……これなら、少しは退屈せずに済みそうだね」
そう言って、彼はふと五号牢へ目を向ける。「桜井幻。新しい監獄長、名前は時田菫って言ってたよな?」
桜井幻は巨大な体で温泉に浸かりながら朝食を取っていた。体格のせいで食事はやりにくく、苛立ち混じりに食器を放り投げる。しかしすぐに管家ロボットが餌やりに来ようとするので、渋々また拾い上げる。
「……この距離で聞こえなかったとでも?」冷ややかな声音。機嫌の悪さが露骨に滲んでいる。
「別にちょっと聞いただけだろ」
夏帆は口を尖らせ、苛つきながらも手を止めない。
豪快に皿へ顔を突っ込み、髭に油をべっとりつけながら食べ続けた。
幻は目を背ける。その直後――。
ガシャーンッ!
牢の奥から食器の割れる音が響き、幻は眉をひそめた。夏帆の粗雑な食べ方を罵ろうとしたそのとき。
「斎藤少将!どうしたんだ!?」
木村宇吉の声が鋭く走る。
他の獣人たちも一斉に顔を上げ、牢の扉越しに一号牢を見つめた。
「何があった?」
「……斎藤少将の精神崩壊が、また悪化してる。ベッドを壊した」
その言葉に、空気が一瞬にして重く沈んだ。
数千年の間、星間では幾度も戦乱が繰り返され、人類は進化を遂げた。力と獣性を併せ持つ「獣人」へと。
だが進化したのは人間だけではない。かつて取るに足らなかった虫類が進化し、星間最大の脅威――「虫族」となったのだ。
彼らは精神を蝕む毒素を放ち、さらには精神を乱す音波を発する。精神力が高ければ高いほど感知能力も鋭敏となり、結果、強き獣人ほど崩壊しやすい。
中でも斎藤蓮は、戦場と虫族に最も長く晒されてきた男。必然、崩壊も最も深刻だった。
それでもこれまで彼は、何事もないかのように振る舞っていた。精神が軋む激痛に晒されながらも、涼しい顔で鍛錬をこなし――まるで症状が軽快しているかのようにすら見せていたのだ。
だが今、真実が露わになった。彼はずっと、誰にも気づかせないまま耐え続けていただけだったのだ。
一号牢の中で、斎藤蓮の寝台は粉々に砕け散っていた。管家ロボットは異常を察知し、丸まって隅に退避。白獅子の瞳は血の色に染まり、咆哮と共に暴れ回り、見えるものを片っ端から引き裂く。
牢の設備は滅茶苦茶になり、彼はやがて扉へと体当たりを始めた。
ドン、ドン……!
重い衝撃音が監獄中に響き渡る。夏帆と幻の角度からは中の様子を見られい。
「どうする……!このままじゃ、次は体がもたない!」宇吉が青ざめる。
「精神の暴走が極限まで達したら、肉体そのものが裂けて死ぬ……!」
望月朔は冷徹な瞳で見据え、低く告げた。「無駄だ。この牢は俺たちを閉じ込めるために造られている。崩壊が深刻なほど防護が強化される……抜け出せるのはお前くらいだ」
「じゃあ、このまま見殺しにするのか!?帝国の救援隊を呼べないのか!」
夏帆が叫ぶ。声は震え、牢全体が悲鳴のように震動していた。
幻が冷笑を浮かべる。「お前、まだ夢見てるのか?俺たちはもう見捨てられたんだ。外に出て暴れさえしなければ、ここで死ぬのが最良の結末――それが帝国の答えだ」
「……そうだろ、大皇子?」
望月朔の緑の瞳が細められる。彼は一号牢を見据え、しかし何も答えなかった。
その沈黙が、答えを示していた。
牢は死のような静寂に包まれる。ただ一号牢の中で、白獅子だけが血まみれの体で防護扉に激突し続けていた。
青白い光壁がちらつき、獅子の純白の毛並みは真紅に染まり、床には血溜まりが広がっていく。
宇吉は目頭を熱くし、視線を逸らした。
斎藤蓮は、ただの帝国の英雄ではない。彼が若き日に千の虫族を一人で討ち、万の民を救ったあの日――宇吉にとって、永遠の憧れとなった存在だ。
その英雄が今、誰に知られることもなく、ただ牢の中で死を待っている。
食事の手は誰一人として動かない。皆、理解していた。斎藤蓮はもう持たない、と。
――自分たちと同じように。精神が崩れた時点で、死は覚悟していた。
悲壮感に支配される監獄。防護壁を叩く衝撃音はやがて弱まり、途切れ途切れになる。
誰も気づかない。緑色のキノコが防護扉をすり抜け、白獅子の頭上にぽんと跳ね乗ったことを。そしてそのまま――彼の体内へと、すっと潜り込んだことを。