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「お客様、本便は終点・黒溟星に到着いたしました。星間航空をご利用いただき、ありがとうございました」
星間飛行船のハッチが開き、ひとりの少女が小さな手提げバッグを抱えてゆっくりと降り立った。
外は刺すような寒風と濃い霧に覆われていて、彼女の住んでいた星よりもずっと冷え込んでいる。時田菫(ときた すみれ)は思わずベージュ色のコートをぎゅっと合わせ、長く白い息を吐き出した。
そのとき、頬に無精ひげを蓄えた少し疲れた風貌の中年男が、にこにこと駆け寄ってきた。「やあ、君が時田菫さんだね?」
菫がうなずくと、中年男は心底ほっとしたように息を吐き、今にも笑い声を爆発させそうな口元を必死にこらえながら、カバンから書類ファイルを取り出して彼女に押しつけた。「監獄管理の重要事項は全部ここに赤線でチェックしておいた。重点は赤印部分だからね!」
「何かあったら時空艦に通信してくれ。できるだけ早く助けに来てくれるはずだから……」
矢継ぎ早に説明をまくし立てる中年男に、菫はぽかんとしたままファイルを受け取る。丸い瞳は完全に状況を飲み込めていない。次の瞬間、男はそそくさと背後の飛行船に乗り込み、ハッチが閉まりかけると、ついにこらえきれず大声で笑いながら手を振った。「そうだ、大事なこと忘れてた!もし連中が監獄の扉を開けろって言ってきても、絶対に開けちゃだめだ!!!」
言い終わるや否や、ハッチは完全に閉まり、星間飛行船は離陸。あっという間に彼女の視界から消えてしまった。
時田菫:「……」
「な、何あれ?まだ質問したいこといっぱいあるのに!」
頭の中は疑問だらけ。いや、それ以前に――監獄がどこにあるのかさえ教えてくれてない!
見上げれば暗雲立ち込める空、吹きすさぶ冷風。身を縮めた菫は、仕方なく街灯の並ぶ一本道を選んで歩き出す。
夜闇の中、巨大な木の枝に一瞬、黒い影が舞い降り、すぐに薄い幻影のように夜へと溶けた。
黒溟星は銀河有数の監獄惑星だが、人口は極端に少ない。ここにある監獄所は星間でも最も厳重とされ、人間の見張りすら不要だと言われている。
菫は一人きりで慣れない道を歩く。響くのは自分の靴音だけ。科学万能の世界だとはいえ、彼女は「転生者」――どうしても身構えてしまい、自然と歩みを速めた。
幸い道は間違っていなかった。数分後、彼女の視界にそびえ立つ巨大な監獄施設が姿を現す。
半円状の巨大な建物は厚い柵で囲まれ、周囲には高圧危険の警告マークが並び立つ。監視カメラは至る所にあり、巡回ロボットも動いている。まさに鉄壁の警備。
霧の立ち込める夜空に半ば覆い隠されたその建物は、まるで人を呑み込む巨大な口のようで、菫はその前で小さな存在になった気がし、不安に胸を締めつけられる。
……それでも。
自分がモブの廃棄雌として転生したことを思えば、こここそが理想の避難所。
菫はぎゅっと唇を結び、スキャンエリアに進んで認証を受け、そのまま監獄所の中へ。
中は一転して暖かく、思わずほっと息を漏らす。すぐに監房を見回る気にはなれず、まずは管理者用の宿舎へ向かった。
携帯していたスペースポーチから家具を取り出し、簡単に部屋を整える。洗面をすませ、ようやくベッドに体を沈めたとき――全身の緊張がゆるんだ。
取り出したのは前任の監獄長から託された分厚いファイル。ページを開いた瞬間、視界が赤でチカチカする。
……そういえば、中年男が「赤印部分が重点だ」って言ってたっけ。
でも、これ……どのページも九割以上が真っ赤なんですけど!?
「あああああっ!!!」
頭を抱えつつも、仕事のためと歯を食いしばって読み進める菫だった。
獄区の片隅。
透明な影が、牢の防御ゲートを音もなくすり抜ける。次第にその輪郭が露わになっていくと同時に、氷結したように停止していた執事ロボットが、軋むようにゆっくりと再起動した。
やがて、牢獄の奥からいくつもの声が重なり合う。
「……看守が変わったのか?」
低く響いたのは、一頭の堂々たる白獅子の声。
「ふん、今度は雌らしいぞ」
翼をひと振りして戻ってきた大鳥が、艶やかな橙赤の尾羽を気取ったように整えながら、嘲るような口調を漏らす。
雪山の玉座めいた石座にふんぞり返っていたマヌルネコは、ふさふさの尾をぱたりと揺らし、鼻で笑った。「雌?これまでの雄どもですら音を上げたのに、メスが務まるとでも?」
「面白くなってきたじゃないか」
赤狐は唇の端を持ち上げ、血のように赤い瞳を細める。
その瞬間、闇に沈んだ牢の奥で、深緑色の縦瞳がぱちりと灯り、氷刃のように冷たい声が落ちた。「……新しい看守が、どれだけ持つかだな」
「俺は三日と見る」
「ククッ、帝国のお高くとまった雌なんぞ、半日も保たん」
「いや、一時間が限度だろうな」
「……雌だからといって、度を越すな」
最初の牢から白獅子の低い声が響くと、ざわめいていた獄内は、じわりと静寂を取り戻していった。
……
「時田菫、お前みたいな生殖値ゼロのクズが、二皇子殿下を狙うなんて!死んじまえ!」
突き飛ばされた彼女の体は、無数の巨大昆虫に呑み込まれ……
「いやあああっ!」
悲鳴とともにベッドで跳ね起きる。荒い呼吸、冷たい汗。手で顔と体を確かめ、まだ無事であることに胸を撫でおろした。
――そうだ、ここは小説の世界。自分はモブの「廃雌」として転生したのだ。原作では、皇子を好きになったせいでヒロインの取り巻きに虫族へ突き落とされ、無惨に死んでしまうキャラ。
同じ名前を持つ孤児。生殖値ゼロ、精神力F。
この世界では、雄が多く雌が少ない。しかも雄たちは子をなすのが難しく、そのため【高い生殖値を持つ雌】は皆の羨望を一身に受ける存在だった。精神力が高ければ高いほど、優秀な子を産む確率も上がり、さらに伴侶を癒やす力も強まる――そう信じられていた。
だが、不運なことに、元の「時田菫」の器はそのどちらも持ち合わせていなかった。とはいえ「雌」である以上、帝国の手厚い福祉は享受でき、最高学府で無償で学ぶことが許されていた。そこで男女主人公と同級生になったのだ。
原主は生来ひどく卑屈な性格で、在学中も男主人公との接点はほとんどなかった。だが卒業後――帝国が「民主」をアピールするために打ち出した【二皇子の妃選び抽選】に、うっかり当選してしまう。
もちろん、二皇子が自分のような「落ちこぼれメス」を選ぶはずがないことは分かっていた。それでも原主は淡い期待を抱き、さらには「先に寝て既成事実を作ってやる」などという執念すら芽生えていた。
だが、その目論見を実行するより早く、女主人公の追随者たちに虫族エリアへと連れ去られ――救出された時には、すでに首だけの姿となっていた。
……時田菫が思い出すたびに震え上がるのは、その凄惨な結末だ。彼女がこの身に転生した時にはすでに「当選」済みであり、同じ最期を辿るのではと恐怖に駆られた。だからこそ、彼女はすぐに抽選を辞退し、星間ネットで人知れず仕事を探し始めたのだ。男女主人公から遠く離れ、狂信的な追随者に巻き込まれぬように――。
だが不幸なことに、彼女の精神力も生殖力も最低レベル。求人を探し回っても、どこも門前払いだった。
諦めかけたその時。一通の採用通知が舞い込んだ。彼女の希望にすべて合致し、福利厚生も文句なし。何度も出所を確認し、正規のルートであると確信した彼女は、喜び勇んで示された宛先――黒溟星へと向かった。
それまで時田菫の知識では、黒溟星といえば監獄の星。彼女が引き継ぐのは前任監獄長の職であることくらいしか知らなかった。だが星間航空の船内で改めて調べてみれば、この監獄長職は誰も務まらぬ難役として有名で、だからこそ応募者ゼロ。結果として、彼女にお鉢が回ってきた――というわけだった。
……なのに。あのファイルの真っ赤な注意書きの山。どう考えても楽な職務じゃない。
それでも。モブの「廃雌」に回ってきた奇跡の就職口。
命と生活のために――やるしかない!
菫は気持ちを立て直し、顔を両手でパシンと叩くと、昨日読みかけで力尽きたファイルを取り上げた。今日からが、本当の監獄長としての一日目なのだ。