朝のギルドは、瓶の音と紙をめくる音でにぎやかだった。壁の魔法灯がやわらかく灯り、薬草の匂いが薄く重なる。
「依頼が出ています」
受付嬢が紙束を示した。
「北西の薬草林。群青草の採取です。新人でも行ける安全任務」
リリィが目を輝かせる。
「やっと冒険っぽいお仕事ですね!」
ルークはうなずいた。
「薬は材料がなければ作れない。地味だけど大事だ」
「採取許可証と地図です。採取上限はこの枚数。日暮れ前に戻ってください」
受付嬢は淡々と告げ、最後に小声を添える。
「最近、森の方で小さな通報が増えています。用心を」
「心得ました」
ルークは地図を丸め、肩のバンドを軽く締め直した。
北西の薬草林は、王都から半刻ほど。
石畳が土道に替わる頃、風が緑の匂いに変わった。
森に入ると、薄青く光る苔が根元に点々と続き、低木の陰で丸い実が微かに灯る。
枝の上には夜鳴き鳥の巣。
昼でも静かに羽をたたみ、首だけこちらを見ている。
「見てください、群青草」
リリィがしゃがみこみ、スケッチ帳を広げた。
「葉脈が光ってます。かわいい……」
「袋はこっち。葉先を折らないように」
ルークは布袋と小さな鎌を渡す。
「根は残す。株を傷めると、来年の群れが減る」
二人は手分けして採り、量と場所を簡単に記録した。
ルークは葉の状態、土の湿り、周辺の虫の多さを書きとめる。
リリィは描いた図に小さな注釈を添えた。
しばらく進むと、前方から人の声。
「……少ないな」「いつもの群生、見つからない」
三人組の薬師パーティーだった。
腰に短剣、背に採取籠。ひとりがルークたちに気づく。
「お前たちも群青草か? 今日は妙に少ない。奥の方にあるって聞いたが」
ルークは周囲を見回す。
「この辺りで足りないなら、奥はあまり勧めない」
「でも、このままだと手ぶらだ」
焦れた顔の男が言い、仲間と目配せして奥へ進みかける。
リリィが小声で問う。
「どうします?」
「少しだけ様子を見る。危なければ止める」
道は細くなり、苔の光が途切れがちになった。鳥の声が少ない。風向きが変わり、土とは違う、うっすら甘い匂いが流れてくる。
「……結界粉の匂いだ」
ルークが足を止めた。根元の杭に、剥がれた魔法紙の破片。封印の紋が半分だけ残り、焦げあとが斜めに走っている。
「封じの印が破れてる。新しい傷だ。戻れ」
三人組の先頭が眉をひそめる。
「ほ、本当か?」
その時、低い唸りが奥から響いた。木々の合間に、灰黒い影が滑る。口元から薄い霧が流れ、草がしゅんと色を失った。
「毒霧狼……?」
リリィが息を呑む。
「この森にいるはず、ない」
ルークは短く答え、前へ出た。
「全員、口と鼻を布で覆え。風上へ下がる。リリィ、解毒の準備」
「は、はい!」
リリィは聖印を握り、解毒と癒やしの光を切り替える準備をする。
三人組は慌てて布を顔に当てたが、ひとりは手が震えている。
狼影が二つ、三つ。牙の間から淡い緑の霧。目がはっきりと光る。
「俺たちじゃ無理だ……!」
後方の男が声を上ずらせる。
「下がって」
ルークは腰の薬袋から小瓶を抜いた。
「まず、嗅覚を狂わせる」
地面の手前に瓶を投げ、白灰色の煙が立ち上る。樹脂の香りが鼻を刺し、霧の匂いを押し戻した。
「次、足を鈍らせる」
別の瓶を投げる。破片からぬめる透明が広がり、草の上に薄い膜ができた。
狼の一匹が踏みこみ、足音が鈍くなる。
「リリィ、後ろの二人。浅い霧でも喉が焼ける。軽く光を通して」
「『癒やしの光よ』」
リリィの掌から薄い光が流れ、咳き込んだ男の呼吸が整う。
狼の一匹が正面から跳んだ。ルークは低く構え、指先で小瓶の栓を弾く。
「麻痺」
瓶が割れ、霧に混じる細かな粉が狼の毛にまとわりつく。肩から脚へ、動きが一段鈍る。
だが側面から二匹目が弾けた。歯が近い。
三人組の若い男が固まる。
「動け! 下がれ!」
ルークの声が短く通る。間に合わない——
「目、閉じて!」
ルークが閃光薬を投げた。白い光が弾け、狼が一瞬よろめく。
若い男は尻もちをついたが、牙は逸れた。
リリィがすぐに駆け寄り、擦り傷に光を落とす。
「大丈夫、今のうちに後ろへ!」
「まだ来る!」
左の茂みから、霧を濃く吐く大型が姿を見せた。肩が高い。牙も太い。群れの長だ。
ルークは一拍だけ息を吸い、薬袋の底から赤い封蝋の瓶を出した。
「ここで止める。全員、もっと下がれ。風上へ。耳をふさげ」
「ルークさん……!」
「大丈夫。樹を焦がさない配合だ」
ルークは赤瓶を握り、ほぼ地面すれすれに投げた。
破裂音は短い。炎ではなく、強い圧と熱だけが前方に走り、土が持ち上がる。
狼たちの足元が崩れ、空気が唸る。
大型は咄嗟に身をひねったが、前脚を滑らせて倒れ込んだ。
「今だ」
ルークは間を逃さず、麻痺薬の小瓶を二本、立て続けに砕く。
粉が大型の肩と首に降り、筋肉の震えが止まる。
残った二匹は体勢を立て直そうとして、ぬめる膜に足を取られた。
鼻先を振って匂いを嗅ぎ直すが、樹脂の香りに邪魔されて焦点が合わない。
リリィが小声で問う。
「追い払いますか?」
「追い払う。森の外には出さない」
ルークは最後に、狼たちの前方へ強い匂いの瓶を投げた。
獣の天敵の臭いを模した攪乱剤。
狼は鼻を鳴らし、徐々に後退する。
大型が無理に立ち上がろうとして、麻痺が勝って膝を折る。
群れは方向を変え、森の奥へ消えていった。
残るのは、割れた瓶の破片と、薄く漂う樹脂の匂い。静けさがゆっくり戻る。
三人組のひとりが、ようやく息を吐いた。
「……助かった」
リリィが残りの擦り傷を癒やしていく。光が落ちるたび、緊張がほどけた顔が一つ増えた。
先頭の男が深く頭を下げる。
「ありがとう。俺たちだけじゃ、無理だった」
もうひとりが、躊躇いがちに付け加える。
「……でも、薬にあんな使い方が……」
ルークは否定も肯定もしない。
「道具は使いようだ。人が傷つく前に止める。それだけ」
三人は顔を見合わせ、最後には素直に礼を言った。
「借りができた。ギルドに戻ったら、あんたの名を書いて報告する」
「名前はいい。戻る道で、群青草を少し見ていこう。君らは今日はここまでにした方がいい」
彼らを安全な道まで送り、採取を再開した。
群青草は、森の浅い帯に少しずつ残っていた。
ルークは標本用に数株、葉を傷めないように包む。
リリィはスケッチの端に「封印の痕」「匂いの変化」「鳥の減少」と小さく書き足した。
帰り道、破損した封印の杭をもう一度見た。焦げた断面が新しい。剥がれた魔法紙の縁は、刃物のようにきれいに切れている。
「本来、この森に毒霧狼はいない」
ルークが小さく言う。
「結界を越えたか、誰かが壊したか。偶然じゃない傷だ」
リリィは真顔でうなずいた。
「印の切り口、整いすぎです。……報告しないと」
「採取の記録と一緒に出そう。封印の再設置を勧める」
森を出る頃、空は明るい。
王都の尖塔が遠くに見え、輸送獣が影を落とす。風はもう毒を含まない草の匂いだ。
ギルドに戻ると、受付嬢が顔を上げた。
「お帰りなさい。早かったですね」
「群青草、規定量。採取記録と、別件の報告」
ルークは地図に書き込んだ印とメモを差し出す。
「北西の林で封印の破損。毒霧狼の出現。応急の対処で追い払ったが、再設置が必要」
受付嬢の目がわずかに広がる。
「……毒霧狼? あの林に?」
「はい。被害はなし。現場に破損した杭と魔法紙の残骸」
「確認班を出します。あなたの記録は薬師長にも回します」
後ろで帳面をつけていた若手が、ひそひそ声を漏らす。
「毒霧狼を追い払ったって?」
「爆薬か?また?」
「いや、あの人は爆発だけじゃない。光とか、匂いのやつ……」
受付嬢が依頼書に判を押し、群青草の受領を記す。
「危ない場面で助けてもらったと、先ほど別パーティーから報告が来ています。……あなたのやり方は賛否がある。でも、現場は見ているようです」
リリィが肩をすくめ、微笑んだ。
「今日も誰か、助かりました」
ルークは短く頷く。
「封印が戻るまで、あの林の任務は控えた方がいい。注意喚起は?」
「すぐに回します」
紙仕事を終え、外に出る。
夕方の風が少し冷たい。街路の魔法灯が順に灯り、香辛料の匂いがまた濃くなる。
「ルークさん」
「なんだ」
「毒霧狼って、北の深林にしかいないはずですよね」
「そうだ。少なくとも、この群青草の森では聞いたことがない」
リリィは少し眉をひそめる。
「じゃあ……やっぱり封印が壊されたせい、ですか?」
ルークは短くうなずいた。
「偶然じゃないだろうな。誰かが意図的に」
「薬師の仕事が増えそうですね」
「その覚悟は必要だ」
二人は並んで歩き出す。鞄の中で群青草がかすかに擦れ、やさしい草の匂いが立った。森の封印は壊れていた。偶然か、故意か。答えはまだ出ない。
——けれど、やることは変わらない。
救える命を、目の前から救う。それから、原因に手を伸ばす。
王都の鐘が一度鳴った。空はゆっくりと橙に変わり、石畳に長い影が伸びる。