翌朝早く、宮崎葵は東京都総合病院に到着した。卒業後、彼女はここで看護師として働いていた。
昼間は薬局で調剤を手伝い、給料は数十万円と高くはないが、比較的時間に余裕があり、自分のための時間も十分あった。
今のように、救急科に来て松本彰人に昼食を届けるのも、そのひとつだ。
彰人は勉強も仕事も忙しく、長年の無理がたたって胃を壊し、脂っこいものが食べられなくなっていた。
二人が同じ病院で働き始めてから、葵は毎日自炊して彼に弁当を持ってくるようになり、もう二年が経っていた。
救急室の前で、ドアは閉まっていた。
葵葵がドアをノックしようとした瞬間、中から宮崎由紀の声が聞こえてきた。
「松本先生、痛い…もっと優しくして…」
甘ったるく、痛みと興奮が入り混じったような声だった。
葵はためらわずドアを開けた。目の前の光景に、彼女は一瞬で凍りついた。
由紀は服が乱れ、ストッキングは足首までずり落ちていた。彰人は片手で彼女の腰を支え、もう一方の手は彼女の足に触れていた。
「あなたたち…?」
「あら、お姉さん。何でもないの。バレンタインデーの夜、私と松本先生は…」由紀は恥ずかしそうに口を押さえ、わざと曖昧に言葉を濁した。「とにかく、松本先生が責任を取るって言ってくれて。今日診てもらいに来たら、足を捻挫しちゃって…」
ああ、バレンタインデーか。
葵は口元を歪めて、軽く笑った。
つまり、彰人がバレンタインデーに自分をすっぽかし、後で「用事があった」としか言わなかったのは、由紀と会っていたからなのか。
同僚が彰人に葵のことを好きかと尋ねた時のことを今でも覚えている。彼の答えをこっそり聞いたのだ。
彼は「好きかどうか」には直接答えず、こう言った。「僕は家柄が良くないし、葵も婚外子で家庭環境が複雑すぎる…一緒になったら、将来きっと苦労するだろう」
その言葉があったからこそ、彼女は彰人が自分のことを好きだけれど、家柄のせいで踏み込めないのだと思い込んでいた。
だから待とうと思った。ずっと待っていた。彰人の仕事が落ち着いたら、自分の境遇を打ち明け、正式に付き合おうと。
でも結果は?何を待ちわびていたというのか?
バレンタインデーにすっぽかされ、彼が由紀とこんなに親密になるのを待っていただけ?
彼女と由紀は姉妹なのに!由紀の家庭環境は複雑じゃないとでも?彰人はそれを気にしないというのか?
つまり、彰人が気にしていたのは彼女の家庭環境ではなく、明らかに…彼女自身に興味がなかっただけだ。
理由はわからないが、一瞬にして、彰人が急に汚らわしく感じられた。本当に、とても汚く思えた。
「そう。邪魔したわね」葵は無表情で、弁当箱を持ったまま振り返り、去ろうとした。
入口で顔なじみの医師が不思議そうに尋ねた。「宮崎看護師、松本先生に食事届けないの?」
葵は微笑み、特徴的な小さなえくぼを見せて答えた。「今日は持ってきてないの。これからももう届けないわ」
「でも弁当箱持ってるじゃない…」
「ああ、これは庭の犬にあげるつもり」葵は笑顔のまま、振り返って歩き去った。
「葵!」彰人の目に驚きが走り、眉をひそめて彼女の後ろ姿を見つめた。なぜか今日の葵の足取りが特に軽やかに見え、何か重い束縛から解き放たれたかのようだった。
妙な焦りを覚え、彼は慌てて由紀から手を離し、葵を追いかけて説明しようとした。ただ由紀の捻挫した足首を診ているだけだったのに、彼女がバランスを崩して自分の腕に倒れてきただけだ、と。
由紀はそれを見て、彼の白衣の裾を引っ張った。艶やかな唇を彰人の耳元に寄せ、香りのよい息を吐きながら囁いた。
「松本先生、私に責任を取るって約束したじゃない?」
由紀の言葉で、彰人の葵を追おうとする足が止まった。
彼は振り返り、端正な顔に少し罪悪感を浮かべて言った。「すみません、足の診察を続けさせてください。それから宮崎さん、あなたの車に私がぶつけて壊してしまったので、必要な金額を教えてください。振り込みます」
「松本先生、車は保険でカバーしてるから、弁償しなくていいの。本当に償いたいなら、この病院のボランティアに推薦してくれない?」
由紀は愛らしく笑った。「私は大学3年生で心理学専攻なの。大きな病院で実習したいし、それに…松本先生の近くにいたいから」
由紀はウィンクした。
彼女は愛嬌たっぷりで魅力的、高級車に乗る裕福な家の娘だ。
そんな女の子を断れる男はほとんどいない。彰人も例外ではなかった。彼の顔はすぐに赤くなり、葵に対する罪悪感はどこかへ消えていた。
まあいい、急いで機嫌を取る必要もない。どうせ葵が彼に怒ることなんてないだろう。
一方、救急室の外では、葵が速足で歩き去り、胸の中の酸っぱい感情がまだ広がっていた。
背後から、誰も追ってこない。
葵は思わず苦笑した。何を期待していたのだろう。彰人にとって彼女は何なのか?
彼女の十年にわたる想いなど、何の価値もないのだ。
葵は病院の中庭へ向かった。彰人のために作った食事を、守衛のおじさんが飼っている子犬にやるつもりだった。
黒い雑種の子犬で、生後2ヶ月ほど。丸い頭にまだ幼さが残っている。彼女はよく食べ残しをその子犬に与えていた。今日もそうしようと思っていた。
習慣的に弁当箱をベンチに開いて置いた。中には湯気の立つフカヒレとエビの煮込み、酢豚、百合と野菜の炒め物があった。
葵は顔を上げたが、子犬の姿は見えない。一瞬戸惑い、立ち上がって探し始めた。
一周しても犬は見つからず、不思議に思いながら戻ってくると、ベンチに老人が座り、彼女の料理を食べているではないか!
「食べ物泥棒!」葵は一歩で近づき、彼女の弁当を盗み食いする「泥棒」の腕を掴んだ。
「ゲッフゥ――」
病院の患者服を着た小柄な老人は、口に半分咥えた酢豚を持ち、両手にはまだ口に入れていない大きなエビを握り、葵に驚かされてゲップをした。そして黙って口の中の酢豚を飲み込んだ。
葵は一瞬戸惑い、相手の服装を見て入院患者だと気づいた。
「おじいさん、ご飯食べてなかったの?」
「うん!病院の飯は豚のエサみたいで、食べられないよ!」
小柄な老人は80代くらいに見えたが、食事の話になると子供のように不満そうな顔をし、今にも泣き出しそうだった。
葵は笑うやら泣くやらの表情になった。
「それじゃあ、よかったらこの料理…」
「構わない、全然構わないよ!」
小柄な老人は葵のこの言葉を待っていたかのように、さっと弁当箱を受け取ると、食べながら褒めちぎった。
「看護師さん、あなたの料理は本当にうまいね。今時の若い女性で、こんなにしっかりしてる人は珍しいよ」
そう言いながら、小柄な老人はこっそり葵の手を見た。看護師の指には指輪がなく、老人の心は花が咲いたように明るくなった。
へへへ、占い師は嘘つきじゃなかった。孫の花嫁は本当に天から降ってきたんだ!
「看護師さん、私はあなたの料理が気に入った。これからも私に食事を作ってくれないか?その代わりに、私には孫が一人いて、もういい年なのにまだ独身だ。紹介しようか?」
葵は笑って言った。「おじいさん、結構です。食べるのが好きなら、明日も持ってきますけど、お孫さんの紹介はいいです」
しかし小柄な老人は引き下がらなかった。「電話番号を教えてくれないか」
葵は仕方なく、LINEのIDを書いて渡した。孫の紹介については気にも留めなかった。
彼女が知る由もないが、老人の「年のいった孫」はちょうどその時、慌てて駆けつけていた。
高橋グループのオフィスで、午後、高橋健太は秘書から報告を受けた。総合病院から連絡があり、おじいさんがまた行方不明になったという。
「このじいさん、またどこかで外食してるんだろう」
健太はネクタイを緩めた。午前中ずっと会議で気が立っていたところに、おじいさんの失踪の知らせだ。食事もそこそこに駆けつけた。
彼は急ぎ足で歩き、長い脚でエレベーターから出た瞬間、誰かと正面衝突した。
消毒液と草の香りが混ざった香りが鼻をくすぐり、健太が下を向くと、ふわふわの頭髪が見えた。
相手は赤くなった鼻をさすりながら顔を上げ、二人の視線が合った。
健太の眉は結び目のようにひそめられた。「宮崎葵?どうしてまたお前なんだ?」