美月が部屋を去ったあと。
伊藤夫人はようやく次男へと視線を向けた。
先ほどまでの怒りも威圧もすっかり消え、代わりに浮かんだのは滅多に見せない慈愛の表情だった。
「彰人。今日あなたを呼び戻したのはね、海外の会社でいくつか問題が起きているの。お父さん一人じゃ処理しきれなくて……私も向こうに行って助けるつもりよ。だからその間、この家のこと──あなたの妹やお祖母様、そして災いの種になるかもしれない佐々木遥のことまで、全部あなたに任せたいの。今は長男がいなくなった。これからの伊藤家を支えるのは、あなただから」
伊藤海斗が亡くなった今、広大な伊藤家を取り巻く人間たちは一斉に動き出していた。
夫婦が悲嘆に暮れている隙を狙い、内部で小細工をする者も少なくない。そのせいで海外の複数の企業に深刻な問題が噴出しているのだ。
伊藤夫人は夫一人にそれを任せるのが心配だった。だからこそ国外へ同行する代わりに、国内を任せられる次男を呼び戻したのである。
「……分かった。私が見張る。誰一人として問題は起こさせない」
彰人は淡々と答えた。声にも表情にも起伏がなく、心中を読ませない。
その冷ややかな姿を見つめながら、伊藤夫人の胸には強い後悔が渦巻いた。
長男は幼少期から身体が弱く、自然と彼女の愛情は長男に偏った。
一方の次男にはほとんど構ってやれず、母子の絆は薄くなる一方。
言うことは聞いてくれる。けれど、心を許すことは決してない。笑顔を向けたこともなければ、悩みを打ち明けてきたことも一度もなかった。
いつだって壁を隔てたように、冷たく、まるで他人のようだった。
──今、長男を失ったこの状況で、ようやく次男と向き合おうと思っても……どうすればいいのか、分からない。
結局、彼女はただ小さくため息を漏らし、バッグを手に立ち上がると屋敷を後にした。
奥方が去った後、彰人はしばらくソファに座っていたが、やがて立ち上がって部屋を出た。
伊藤夫人が去ったあと、彰人はしばらく無言でソファに腰かけていた。
そして立ち上がると、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
──兄が生きていた頃、母の視線は一度たりとも自分に向けられなかった。
今になってようやく注がれた「母の愛」など、もうとうに必要としていないのに。
伊藤夫人が家を離れると、彰人はすぐに妹を学校へ送り出すよう命じた。
そして、何度も追い出されながら居座っていた詩織に対しても、ついに厳しい処置を下す。
彼女の目的はただひとつ──彰人と直接会い、存在を印象付け、できれば気に入られること。
ようやく叶った邂逅を失いたくない彼女は、必死に庭に居座っていた。
「彰人お兄さま、やっとあなたに会えたんです。お願いです、少しだけ──」
「……消えろ」
彰人の双眸が冷たく細められる。
「二度と俺の前に現れるな」
彼にとって、こうした「自ら近づいてくる女」ほど醜悪な存在はない。虚飾にまみれ、伊藤家の権勢に群がる亡者ども。例外など一人もいない。
詩織は恐怖を堪えてなお、必死に取り繕う。
「彰人お兄さま、怒らないで……私、悪気はないんです。嫌なところがあるなら直しますから、だから──」
「……雄太」
彼は名前だけを呼び、視線すら向けないまま冷ややかに命じた。
「引きずり出せ」
「かしこまりました、彰人様」控えていた屈強な護衛が一歩前に出ると、詩織をまるで不要な布切れのように乱暴に掴み、そのまま庭の外へと引きずり去った。
呆然とする詩織。抗うことすら忘れるほどの衝撃。
だが──最後まで、彰人は彼女に視線をくれることはなかった。