差し出された白いハンカチを受け取り、彼は淡々と口元の血を拭った。再び、愛美の耳に冷たい声が響く。
「誰か、この女を放り出せ!」
「健誠、私が連れて行くわ。どうせ私の姉なんだし」
陸奥詩織は愛美に歩み寄ると、その背後に回り、ワンピースのファスナーをゆっくりと閉めた。
彼女はまるで思いやりのある妹のように、愛美の手を優しく握り、柔らかな声で言った。「お姉さん、こっちへ……」
愛美はじっと動かず、その目は白い花に囲まれた賢人をずっと見つめていた。澄んだ瞳には深い名残惜しさが満ちていた。
彼女はもう一目、賢人の顔を見たかった。もう一目、彼女の命の綱である大切な我が子を見たかった。
詩織はつま先立ちで愛美の耳元に寄り、小声でつぶやいた。「お姉さん、賢人ちゃんがどうして死んだのか知りたくない?知りたければ、大人しく私について来て」
愛美は振り向いて詩織を見た。詩織は整った顔に安心させるような笑みを浮かべた。「いい子ね、ついて来て」
詩織の上品で申し分のない物腰は、葬儀の参列者全員から无声の賞賛を集めた。
「お姉さん、賢人ちゃんがなぜ死んだのか知ってる?私が彼に、あなたがサプライズを用意していると言ったからよ。だから彼はこっそりあなたの車に隠れたの」
「もちろん、写真の女もあなたじゃないわ。金で雇われて、あんたの顔に整形したモデルよ。どれだけ健誠さんを奪ったことを恨んでいても、あなたは陸奥家の娘だろう?家族の恥を晒すわけにはいかないでしょ?」
「あなたの賢人ちゃんが窒息死する様子を収めた映像が、ここにあるんだけど、見てみる?」
「お姉さん、これだけ話せば、私を恨むでしょう?でもね、あなたの存在を知ったあの日から、死んでほしかったの。何度も殺そうとしたのに、その度に生き延びて……今回はもう逃がさない。愛美、あなたはすべてを失った。哀れね!もう誰もあなたを信じない!」
愛美は目を見開いたまま、耳元でブーンという音が鳴り響いてい。
詩織の言葉を全て理解したようでもあり、何も理解していないようでもあった。
詩織は背後から猛スピードで迫ってくる車を視界に捉える。さっと腕時計に目を走らせ、タイミングは完璧だと確認した。
「お姉さん、賢人ちゃんを見たかったんじゃない?」
詩織は携帯を取り出して動画を再生した。画面には賢人が絶望的な表情で車の窓を叩いていた。
彼は必死に助けを求め、黒い髪が額に貼りついて、無数の汗が一滴一滴と落ちていった。
賢人の力は、徐々に失われていく。
彼は蒸し風呂のような車内でゆっくりと目を閉じた。目を閉じる前、彼は「ママ、ママ……」とつぶやいていた。
愛美は目を真っ赤にして、憎しみの眼差しで詩織を見つめた。陸奥家に来て以来、詩織は常に親切にしてくれた。だからこそ、愛美は詩織の心が本物だと思い込んでいたのだ。
今になって愛美は、詩織が自分をどれほど憎んでいるかを知った。
その憎しみは、彼女の賢人ちゃんを生きたまま窒息死させるほどだった。
その憎しみは、賢人ちゃんの苦しむ姿をわざわざ動画に残してまで、自身の残酷さを見せつけるほどに強かった。
「陸奥詩織、ぶっ殺してやる」
今、愛美の頭を支配しているのは、詩織を殺すことだけだ。
詩織を殺して、無残な最期を遂げた賢人ちゃんの復讐を果たす……