彰は頭のタオルを外して横に放り、乱れた髪のままピアノの前に腰を下ろした。左手を鍵盤に置き、気まぐれにいくつか音を鳴らす。どれも驚くほど澄んだ響きだった。
隣に住む詩織は、その流れるようなピアノの音色に惹かれて窓辺に駆け寄り、カーテンを開けて爪先立ちで向かいを覗き込んだ。
『クロアチア・ラプソディー』(Croatian Rhapsody)「激推し」
旋律は引き締まり、高揚感に満ち、流れるように滑らか。強いリズムを持ち、「野性の中の悲しみ」「絶望からの再生」と呼ばれる名曲だ。
上質な音色は、耳に心地よく、まるで饗宴のようだった。
あれは先日運び込まれたピアノだろうか?
すっかりその音に魅了された詩織は、思わず確かめに行きたくなった。
そのとき、部屋の中で携帯の着信音が鳴った。
興を削がれた詩織は、少し残念そうに電話を取った。
受話器の向こうから友人の大声が響いた。「詩織、うちの猫がやられたのよ!奥さんが子猫を産んで育ててみたら、1匹も似てないの。種類まで違うのよ!」
窓際で壁にもたれた詩織は、まぶたをぴくりと動かし、呆れたように口角を引きながら笑った。「それは……まさに壮大な災難ね」
猫のお父さんに、3秒の黙祷を。
春の夕風が静かに大地を撫で、次第に遠ざかるピアノの音と混ざり合いながら、ゆるやかに未知の彼方へと流れていった。
帰国して最初の一日が、こんなにも穏やかで美しいとは。
-
菊地遥はペットショップのオーナーで、普段は好きな猫や犬を数匹飼っている。
帰国前に、詩織は遥と子猫を一匹譲ってもらう約束をしていた。
日にちを数えれば、ちょうどこの数日のうちだ。
「これから子猫を迎えに行くから、準備しておいてね」
空がすっかり暗くなる前に。
詩織はガレージから普段使いの車を出し、住宅街を出て幹線道路に入り、ナビが示す場所へと向かった。
彼女は気づかなかったが、詩織が出てすぐ後ろを、黒くて控えめながら高級感のあるスポーツカーが追っていた。
ただ、その車は住宅街を出ると、詩織とは反対方向へとハンドルを切った。
瞬く間に車の流れに紛れ込んでいった。
長く離れていたせいで、ペットショップは2回も引っ越していた。ナビに従って大きく回り道し、ようやく「ハッピーペットショップ」の入口にたどり着いた。
「こら、待て!どこへ逃げる気だ、捕まえたら高く売っちゃうぞ!」
ライトブラウンのコートを着た女性が、ペットショップに足を踏み入れた瞬間。
店内はまさに猫も犬も入り乱れる大騒ぎだった。
この店を4〜5年経営している店主の遥は、昨日、良質なラグドールの一団を仕入れたばかりだった。中でも、目の前の1匹は雪のように白い毛並みに、尻尾の先に黒が少し混じり、青い宝石のような瞳にはまるで夜空全体が宿っているようだった。
文句なしに、高そうだ。
ただ、一つだけ問題があるとすれば。
マジで手に負えないくらい暴れてる。
「お願い、少しは休んでくれない? このペットショップ、あなたに壊されちゃいそう。見て、あそこのコーギーは怯えて震えてるでしょ。だから、もう走り回るのはやめてくれない?」
遥はため息をつきながら言った。「この美しい外見の中に住んでいるのは、もしかしてシベリアンハスキーの魂?」
店内の女性は背が高く、髪をお団子にまとめ、エプロン姿のまま、両手を腰に当てて息を切らしていた。
コーギーは怖がってケージの中で小刻みに震えていた。
跳ね回る猫は全身の毛を逆立て、部屋中を跳ね回っていた。「どうしたの?」普段は穏やかな遥が、ここまで猫に怒るなんてめずらしい。「優しくしてあげてよ。初めての場所なんだから」