目配せで社長の許可を得た暗黙の合図を受け、吉田くきは深く息を吸い込み、注文の重責を担った。
数秒の沈黙の後、食卓の大物たちは談笑を続け、「食事には特別な興味がないから、秘書に任せればいい」という空気を作り出していた。
だが、くきには適当に済ませる勇気などなかった。昨日この店のメニューを下調べしたものの、細かく目を通す余裕はなかった。彼女は近くに立っていたウェイターに手を上げて合図した。
ウェイターは近づき、軽く頭を下げて待機した。
くきは看板料理の中から見栄えが良く、食べやすいものをいくつか選び、さらに清熱作用のある料理も加えた。田中彰がそれを食べて少しでも気分を和らげ、昨日の事故を忘れてくれることを願った。
「以上でお願いします」メニューを閉じた彼女は顔を傾け、小声で伝えた。「追加があればまた呼びます」
「かしこまりました」
ウェイターは軽く頷き、オーダーを持って個室を出て行った。
任務を一つ果たし、くきは密かに息を吐いた。しかし安心する間もなく、再び接待の心得を頭の中で繰り返した――
乾杯のタイミングは早すぎず遅すぎず。言葉は簡潔に、引き延ばさず、弱気を見せない。姿勢も大事。グラスを持つ手は安定させ、視線は相手を捉え、笑みを浮かべ、軽く会釈。猫背や首を突き出すのは絶対だめだ。
出張前に先輩たちから叩き込まれた心得が、次々と頭に蘇った。
しばらく伺ってから、くきは意を決してグラスを持ち上げ、笑顔を作り、台詞は短く明快に放った。「田中社長、ご一緒に一杯」
田中彰は彼女を見て、わずかに笑ったように見えた。しかし次の言葉は冷静な拒絶だった。「ありがとう。酒は飲まないんだ」
――では、彼が先ほど口をつけていたのは……?
くきは視線を落とした。白酒のグラスは手つかず、赤ワインもそのまま。減っていたのは茶器の中身だけだった。
心の中でがっくりと崩れ落ちた。
顔を赤らめ、まつ毛を震わせながらも、必死に平静を装い、慌てて茶杯を持ち替えた。「で、では……お茶で代わりに、一杯」
――どうか大目に見てください。事故は私一人の責任です。会社にはご迷惑をかけないで。
「いいよ」田中はあっさりと茶杯を持ち上げ、軽く口をつけた。
何とかやり過ごせた。くきは腰を下ろし、長い息を吐いた。
*
宴席が終盤に差しかかった頃、くきは人々が気づかないうちに個室を抜け出し、会計を済ませつつ外で一息ついた。
新鮮な空気を吸わなければ、本当に窒息しそうだった。
彼女は隠し事ができない性格で、この奇妙な体験を甘粕葉月に伝えずにはいられなかった。
廊下の柱に背を預け、指先でスマホを素早く打った。
小鳥はパクチーを食べない:【信じられないと思うけど、昨日私がぶつけたロールスロイスの持ち主、実はクライアントの社長だったの!もう駄目だ、お昼に顔を合わせたとき、心臓止まるかと思った。あれはホラー体験と何が違うの?】
葉月はちょうど昼食中で、即座に通話をかけてきた。興奮気味の声が響いた。「マジで?そんな縁ある?lineで繋がらなかったから終わったと思ってたのに、まさかこんな展開があるなんて!」
「私の心臓が爆発しそうなのに、あんたは慰めもしてくれないの?」くきは呆れ顔で言った。「友情、ますます安っぽくなってない?」
「nonono、あなたとそのロールスロイスの持ち主の関係こそ、どんどん小説みたいになってるって!」
もし彼女が目の前にいたら、くきは拳骨を落としていただろう。
恋愛脳のこの女は、自分が恋をすると世界中がピンク色に見える。恐ろしい。
「もういいわ、仕事に戻る」くきはスマホをしまい、柱から体を離し、背筋を伸ばして軽く体をほぐしてから戻った。
個室に入ると、田中彰が席を立っているところだった。「この後予定があるので、これで失礼します」
金田修が立ち上がり、他の副社長たちも一斉に見送りの姿勢を取った。
田中彰は片手でスーツのボタンを留め、礼儀正しく頭を下げた。「どうぞそのままで」
金田修はドア脇に立つくきを見て、笑いながら言った。「じゃあ吉田、代わりに田中社長を送ってくれ」
くきは命令に従い、無言のまま田中の後を追い、エレベーターホールまで案内した。前に出てボタンを押し、左右を見渡したが、彼の特別補佐の姿はなかった。
田中彰は彼女の行動を誤解したようで、落ち着いた声で言った。「用事があるなら行っていい。私はここで待つ」
くきは説明せず、笑顔で頷いて数歩下がった。
その時、ポケットのスマホが震えた。取り出すと葉月からのメッセージだった。
甘粕葉月:【写真撮って見せてよ。昨日から気になってたけど、今日もっと気になる。お願いだから!】
小鳥はパクチーを食べない:【私のクライアントの写真を撮れって?頭大丈夫?何の恨みがあるのよ、そんな風に私を陥れて】
甘粕葉月:【こっそり撮ればいいでしょ】
くきはまた呆れた:【自分で賢いと思ってる?盗撮がバレたら余罪よ!】
葉月は悪びれもなく:【バレなきゃいいだけ】
さらに催促が届いた。【早く、ケーキ買ってあげるから】
仕方なく、くきは数歩先の田中を盗み見た。エレベーターの前で立つその姿は長身で、磨かれた扉に映るシルエットは冷ややかで、彫刻のようだった。
葉月に押し切られたくきは、目を伏せて呼吸を止め、スマホをそっと持ち上げ、フレームを彼に合わせてぎこちない体勢でシャッターを押した。
しかしフラッシュを切り忘れ、白い光が何度も閃いた。心臓が止まりそうになった。
光に気づいた田中が横目を向け、視線がぶつかった。
くきは慌てて携帯を耳に当て、電話を装った。「はい、わかりました。すぐに行きますから。うん、うん、了解です」
田中彰は長く彼女を見つめ、口元をわずかに緩め、短く笑った。
今度は確かに見た。間違いなく笑っていた。先ほど乾杯したときの曖昧なものではない。
頬が熱を帯び、何に笑われたのか分からなかった。下手な演技を見抜かれたのだろうか。
――まさか。
自分の機転は十分だったはずだと信じた。
ちょうどその時、エレベーターが到着し、扉が開いた。田中彰は何も言わず乗り込み、下降していった。
くきは霧の中に取り残されたように、不安と困惑に包まれた。扉が閉まった後、ようやくスマホを下ろした。
そこで気づいた。――やってしまった。慌てるあまり、スマホの背面を耳に当て、画面を外に向けていたのだ。
画面は点灯したままカメラモード。
距離からして、田中は確実に見ていた。
くきは呆然と立ち尽くし、ようやく一歩踏み出したが、足をもつれさせて壁にぶつかり、そのままもたれかかった。
――もう死にたい……