Chapter 4: 後悔なんてしない
Editor: Pactera-novel
後悔なんてしない
小野澪は読んだ内容を信じられなかった。
『小野拓海、娘・小野澪を小野家から追放！』
『小野澪、華麗なる小野家からの劇的退場。その裏にある理由とは？』
『美しき令嬢・小野澪、今や正式に勘当され、無一文に——』
（お父さん！ひどいよ……どうして娘にこんなことができるの？マスコミにまでリークするなんて！）
澪は携帯を強く握りしめていた。
父に自分の進む道を告げてから、まだ五日しか経っていない。それなのに、今日が小野澪として生きる最後の日になった。
しかも——父は彼女に膨大な書類へ署名させた。それは、小野家の一員としてのすべての権利を放棄させるためのものだった。
さらには、小野家の金銭や財産を一切使わないという誓約書まで書かされた。もし破れば、莫大な損害賠償が発生すると明記されていた。
そして、それを支払えなければ？
刑務所行き。
反論の余地などない。
……
「佐藤さん……」
新しい名前を呼ばれて、澪は怒りに支配された思考から引き戻された。
もう「小野」という姓は使えない。
今は、亡き母の姓——「佐藤」を名乗っている。
「……はい」澪は静かに返事をした。外見は冷静そのもの。しかし内側は、崩れかけていた。
怒りも、悲しみも、すべてを必死に押し殺していた。父に、自分が壊れたと悟られるのは絶対に嫌だった。
彼女の視線は、部屋に入ってきた父の弁護士・山田悟（やまだ さとる）へ向けられた。
彼の変わりように、澪は言葉を失った。かつては、温かく丁寧に接してくれたはずの男が、今やまるで取るに足らない人間を見るような目で、彼女を見下ろしていた。
「こちらにサインをお願いします、佐藤さん……」
山田は冷淡に言い放つと、書類とペンを押しやり、背もたれにもたれて澪を見下ろした。その顔には、薄ら笑いとも取れるような憐れみと傲慢が入り混じっていた。
「すべてに署名が済んだら——携帯、車、マンションの鍵、全部返してもらいます。あなたが持ち出せるのは、この身分証……それと、亡くなったお母様の遺品だけです」
彼は、部屋の隅にあるくたびれた小さなスーツケースを指差した。
澪は黙ってペンを取り、すべてのページに淡々と署名していった。
「……他に何か？」
彼女の静かな目の光に、山田はわずかに動揺を見せた。
咳払いひとつしてから続ける。
「この新しい身分証を受け取ってください。あなたに関する報道については、お父様が一週間以内に記事を削除させるとのことです。それと——はっきり仰っていました。『もうこの街に戻るな』と」
「承知しました。これで失礼します、山田さん」澪は声を安定させて言った。
彼女は机の上にすべてを置き、立ち上がって古いスーツケースを手にし、無言で部屋をあとにした。
……
部屋を出ると、廊下には小林静香と妹の莉緒が立って待っていた。
二人ともひどい顔だった。目は腫れ、真っ赤になっていた——自分のために泣いてくれていたのだと、澪はすぐにわかった。
父を憎む気持ちは消えない。でも、静香と莉緒への想いは、最後まで変わらなかった。
——この人が継母で、本当によかった。静香は、他人の子である澪にも、ずっと優しく接してくれた。世間でよく聞くような冷たく残酷な継母の姿とはまるで正反対だった。
「澪ちゃん……」
静香の声は震え、次の瞬間には彼女を強く抱きしめ、声を上げて泣いていた。
「ごめんなさい……力になれなくて……お父さんを説得しようとしたの。必死に……でもダメだった。私、彼のことを許せない……」
「静香さん……今まで、本当にありがとうございました。でも、彼のことを憎まないで。これは……私が選んだ道なんです」
声は安定していたが、心はずっと軋んでいた。それでも澪は、泣き笑いのような笑みを浮かべ、静香の背後で静かに涙をこぼしている莉緒へ目を向けた。
静香が抱擁をほどいたその瞬間、莉緒が澪の腕の中に飛び込んできた。
「泣かないで。私はまだ死んでないよ？」
冗談めかした口調で言いながら、澪は少しだけ抱きしめる腕の力を緩めた。
妹の顔を両手で包み、かすかに微笑みながらそっと涙をぬぐってやる。
目と目を見つめ合いながら、優しく語りかける。
「莉緒、ちゃんと勉強して。いい？この国で一番の医者になるって、約束して」
「……姉さん……」
莉緒は涙声でささやいた。
「勉強なんかしたくない……お父さんがまだ姉さんを追い出すなら、私、もうやらないって言ったの……」
澪の動きが一瞬止まった。彼女は苦笑を漏らし、そっと莉緒の頬をつねった。
「もう……馬鹿なこと言わないの。あなたは勉強して、すごいお医者さんにならなきゃ。約束だよ？」
「……うん……」
莉緒はぽろぽろと涙をこぼしながら、しっかりとうなずいた。
「……もう、行かなきゃ」澪は言った。
「お父さんがすぐ戻ってくる。私がまだここにいたら、きっと怒鳴り散らすから」
静香は表情を強ばらせ、深くうなずいてから、娘に視線を送った。
「莉緒、お姉さんを行かせてあげて」
不安を隠せない声だった。夫の性格も、癇癪も、何より危険性を彼女はよく知っていた。
「……姉さん、元気でね」
莉緒はまだ澪の手を強く握ったまま、涙をこらえながらささやいた。
「私のこと……絶対に忘れないって約束して……」
その手が、そっと離れた。
澪の胸が、音を立てて引き裂かれそうになった。こんな別れ、望んでなかった。静香さんや莉緒と離れたくなかった。でも、このお腹の命だけは、諦めたくなかった。
これが最善の選択だ。後悔はしない。
「またね、静香さん……莉緒……」
二人に向かって、最後の微笑みを見せた。
——もう二度と会えないかもしれない。それでも、彼女は心に誓っていた。二人の愛も優しさも、絶対に忘れないと。
タクシーが庭を離れ、門へと進んでいく中、澪は最後にもう一度だけ、あの家を振り返った。
かつて、愛と安らぎ、家族の象徴だった場所。今や、それは裏切りに染まった記憶でしかない。
車が門を抜けようとしたその瞬間——彼女はそれを見た。
——父の車だった。
遠くから、黒く、静かに、だが威圧的に近づいてくる。中にいる人物と同じく、冷酷な存在感を放っていた。
澪の喉がひゅっと鳴った。
車は減速した。心臓は認めたくない絶望的な希望で暴れる。もしかしたら、見てくれるかもしれない。一瞬でも、目を合わせてくれるかもしれない。考え直してくれるかもしれない。
——でも。それはなかった。
色の入った窓の奥——後部座席に座る小野拓海が見えた。表情ひとつ変えず、前を向いたまま。通り過ぎるタクシーなど、まるで見えていないかのように。
まるで、澪など初めから存在しなかったかのように。
唇がわななく。彼女は慌てて顔を背け、冷たい窓ガラスに額を押しつけた。運転手に顔を見られたくなかった。
——静かな涙が、頬を伝った。
胸の奥で疼いていた痛みが、やがて、怒りと悲しみ、絶望と悔しさが絡み合った巨大な塊へと変わっていった。
「小野拓海……私の未来を壊したことは認める。でも……私を壊したと思ってるなら、それは大間違いよ！私は自分の人生を決して諦めない。今も、これからも」
彼女は保護するように震える手で、お腹にそっと手を当てた。
「いつか……必ず、あなたは後悔する。私にしたこと、そして……この子にしたことを」
タクシーは進み続ける。彼女を、あの家から、あの痛みから——そして、彼女を切り捨てた父のもとから遠ざけながら。
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