第5話:命の恩人
[雪音の視点]
冬夜が家を出てから、もう一週間が経つ。
朝起きても、夜帰ってきても、この家には私一人しかいない。最初の数日は寂しさを感じていたけれど、今はむしろ静寂が心地よい。
スマートフォンを手に取って、何気なくSNSを開く。
冬夜のインスタグラムには、新しい投稿がいくつもアップされていた。温泉旅館での食事風景。海辺での夕日。そして、紅と手を繋いで歩く後ろ姿。
彼の表情は、私が知っている冬夜とは別人のように穏やかで幸せそうだった。まるで普通のカップルのように、自然に笑っている。
私の前では、こんな顔を見せてくれたことは一度もない。
画面をスワイプして、すぐに閉じた。
もう、見る必要もない。
午後、私は実家を訪れた。
「お疲れさま」
母が玄関で迎えてくれる。久しぶりに実家の匂いを嗅いで、少しだけ心が和んだ。
リビングに通されると、父が新聞を読んでいた。
「雪音か。珍しいな、平日に顔を出すなんて」
「お父さん、お母さん、話があるの」
私は二人の前に座った。
「実は、しばらく研究所にこもることになったの」
母の表情が曇った。
「研究所って......どのくらい?」
「長ければ二年くらいかな」
「二年?」父が新聞を置いて、私を見つめた。「結婚を控えているのに?」
「それなんだけど......」
私は一度深呼吸をした。
「冬夜との結婚、やめることにしたの」
母の顔が青ざめた。
「え?どうして?喧嘩でもしたの?」
「喧嘩じゃない。ただ......研究にもっと打ち込みたくなったの」
嘘だった。本当の理由なんて、両親に話せるわけがない。
「雪音......」母が心配そうに私の手を握った。「もう一度よく考えてみなさい。冬夜くんはいい人じゃない」
「お母さん」
「五年も付き合って、やっと結婚が決まったのよ?それを今更......」
「もう決めたことなの」
私の声が少し強くなった。
父がゆっくりと口を開いた。
「自分で選んだ道なら、後悔するなよ」
母が父を見つめた。
「お父さん!」
「いいんだ」父は私に向き直った。「雪音の人生だ。親が口出しすることじゃない」
私は父に感謝の気持ちを込めて頷いた。
夕方、家に戻ると、玄関先で小春(こはる)が待っていた。
「やっと帰ってきた」
小春は腰に手を当てて、呆れたような顔をしている。
「どうしたの?」
「荷造り、手伝いに来たのよ。一人じゃ大変でしょ?」
私たちは家の中に入った。がらんとしたリビングを見回して、小春が口笛を吹いた。
「すごいわね。もうこんなに片付けちゃったの」
「少しずつやってたから」
「そういえば」小春がソファに座りながら言った。「二ヶ月前、あなたが冬夜にプロポーズして成功したって聞いた時は、本当に嬉しかったのよ。まさかこんなことになるなんて......」
私は黙って段ボール箱を組み立てた。
「ねえ、雪音」
小春の声が真剣になった。
「本当の理由、教えてくれない?研究に打ち込みたいなんて、嘘でしょ?」
私の手が止まった。
「......」
「この一ヶ月、あなたの様子がおかしかったもの。何があったの?」
私は段ボール箱から顔を上げて、小春を見つめた。
親友の優しい眼差しが、私の心の奥まで見透かしているようだった。
「冬夜が......」
声が震えた。
「冬夜が、別の女性を妊娠させたの」
小春の目が見開かれた。
「は?」
「紅っていう女性。冬夜の......命の恩人らしいの」
私は一ヶ月前のことを、全て話した。人工授精の提案。紅の妊娠。そして、冬夜の言い分。
話し終わると、小春の顔が真っ赤になっていた。
「ふざけんなよ!」
小春が立ち上がった。
「何でそれをあんたに許させようとしてるんだ!命の恩人だから?そんなの理由になるわけないでしょ!」
「小春......」
「なんで?」
小春は顔をしかめて、腹立たしそうに言った。
「雪音も彼の命の恩人だよ!それなのに、なんでこんな目にあわなきゃいけないの?」
私は何も言わなかった。
きっと、彼は私を愛していなかった。
それがすべてだ。