彼女はどこか堕天使めいた美しさをまとい、妖しい気配の奥に澄んだ純真さがのぞいていた。とりわけあの瞳は深く鋭く、吸い込まれそうなほどで、すべてを見透かすようだった。
「必要ないわ。私は彼女を突き落としてなんていない」雪絵の言葉に、晶はただ肩をすくめるように薄く笑い、あっさりと言い返した。
「まったく田舎育ちね。野暮で行儀もなってない。立ち方ひとつ座り方ひとつ知らないなんて、教養の欠片もないわ」雪絵は小さく毒づき、晶への不満を隠そうともしなかった。
輸血を終えて器具を片づけていた有馬先生が、ふいに雪絵へ視線を向け、落ち着いた声で言った。「岡本夫人。ご本人がそう主張されるなら、きっと示せるものがあるはずです。もう少し冷静に話し合ってみてはいかがでしょう」
「ですよね、岡本さん?」有馬先生は晶の方へ視線を送り、ほかの誰にも気づかれない角度でそっとウインクした――ボス、早く録画を出してあの子を黙らせましょう!
咲は部外者ながら、この有馬先生こそ有馬浩介(ありま こうすけ)、錦川市第一人民病院の“影の院長”であり、晶が抱える腹心の一人だと知っていた。そして今日わざわざ院長の立場で岡本家へ往診に来たのも、すべて晶の顔を立てるためなのだ。
咲にはわかっていた。読者待望の“逆転の一撃”が、いよいよ始まるのだと。
だから咲は先に立ち上がり、雪絵の手をそっと取った。「お母さん。姉さんは私を押してないの。私が足を滑らせて勝手に転んだだけよ」
打ち負かされるなんて、絶対にごめんだったのだ。
雪絵は眉を寄せ、晶への怒りをさらに募らせた。「晶、聞いたでしょう?咲はあなたをかばってくれたのよ。少しは姉らしくできないの?」
晶はただ黙って咲を見つめるだけだった。一方、浩介は今にも噴火しそうだったが、“温厚な医師”という看板を守らねばならず、表情ひとつ乱せない。心の中では思いきり咲を小賢しい小悪魔めと罵り、頭を抱えた。まさか――引いてみせて攻めてくるとは!
浩介がついに堪忍袋の緒を切らし、ボスのスマホをひったくって動画を再生し、咲を叩き伏せようとした――まさにその瞬間。
咲はきりっとした表情で言った。「お母さん、私は姉さんをかばってるわけじゃないの。あの時、姉さんのスマホがずっと録画してたの。信用できないなら、動画を見てみて」
晶の指先がふと止まり、咲を見つめる瞳に、驚きと戸惑いが深く沈んだ。
浩介は――はぁ!?マジでか!あの小悪魔、まさか今回は定石どおりに動かない!?それに……どうしてボスがいつもスマホで録画してるって知ってるんだ!?
その場でいつも気配の薄い哲也でさえ、息をのんで咲を見つめた。
雪絵は訝しげに晶を見やったが、咲の真剣なまなざしと筋の通った言い方に押され、しぶしぶうなずいた。
彼女は晶の動画を確かめようともせず、若者に頭を下げる体面も保てなかったので、ただ冷ややかに言い放った。「咲がそう言うなら、これ以上は追及しないわ。でも――今後は分をわきまえなさい」
そして雪絵は浩介にお茶を差し出し、遠回しに帰るよう促した。
浩介は帰りぎわ、こっそりと咲を睨みつけた。だが次の瞬間、その視線はぴたりと咲の目とぶつかった。
浩介は足をもつれさせ、危うくつまずきそうになった。
咲はふっと微笑んだ。「有馬先生、お気をつけて」
浩介は「……」と固まり、何も言い返せずにそのまま視線をそらした。
この小悪魔、絶対わざとだ!今ごろ心の中で勝ち誇ってるに決まってる!まさかここまでやれるとは……。先に危機を潰すなんて、想定外だ。ふん、次こそボスのために、徹底的に叩きのめしてやる!
浩介が帰り、家政婦が哲也を連れて外へ出ようとしたところで、咲は声をかけて引き止めた。「鈴木さん、こんな時間にどこへ哲也を連れて行くの?」
咲は、さっき鈴木さんが外から“小さな血液バンク”を連れてきたのを思い出した。
鈴木さんはなんとも言えない表情で咲を見つめた。「お嬢様……お忘れですか?この前、哲也様がスキンケア用品をこぼしてしまって、あなたが“温室のある花園で寝なさい”と罰をお与えになったでしょう」
哲也は目を伏せ、口をつぐんだまま立っていた。その姿は、ひどくおとなしく見えた。
しかしそんな姿を見せられると、咲は自分のせいではないとわかっていても、胸の奥にうっすら罪悪感が芽生えた。
咲もようやく思い出した。確かにそんなことがあった。そのスキンケアセットは、元の咲のいとこから贈られたお気に入りで、使う前に“小さな血液バンク”にこぼされてしまったのだ。
元の咲は激怒し、哲也に別荘を出て庭の花園で暮らすよう命じたのだった。