「それに、岡本家の件は今ネットで大きな騒ぎになっているでしょう。本来なら晶のものだった婚約を咲に与えるなんて、やはり筋が通りませんわ」雪村夫人は笑みを崩さずに言った。
雪絵は眉をひそめた。「つまり、あなたたちは晶と正明の婚約を望んでいるということ?」
咲が正明に釣り合わないって言うなら、あの粗野な田舎娘の晶のほうがふさわしいってこと?
雪絵は、ネットでの騒ぎさえも晶の仕掛けではないかと疑っていた。咲から身分も婚約も奪い取るために。
雪村夫人はお茶を一口含み、静かに言った。「子どもたちはまだ高校生ですし、こちらも婚約を急がせるつもりはありません。今日伺ったのは、ネットで流れている噂が事実なのか確かめるためです。そもそもこの縁談は亡き義父の代に決まったもの。軽々しく扱うわけにはいきませんからね」
「そういえば、そちらの晶さんはもう家に迎え入れたのでしょう?客が来ているのに挨拶にも姿を見せないなんて」雪村夫人の目には、あからさまな軽蔑が浮かんでいた。
聞けば、晶は田舎育ちだという。だが雪村夫人からすれば、養女の咲のほうがまだましに思えた。
晶の話題が出た途端、雪絵の表情はいっそう険しくなった。「晶なら、朝早くに出てしまって……」
雪村夫人はうなずくと、それ以上は居座らず、軽く挨拶だけ済ませて正明を連れ帰った。
正明は終始黙ったままだったが、帰り際に眉を寄せて咲をちらりと見やり、露骨に不満そうな顔をした。
咲は首をかしげた。電話を切っただけなのに……私、ほかに何かしたっけ?
正明はゆっくり歩きながら、咲とのLINEのトーク画面を眺め続けていた。岡本邸を出ても咲は追いかけてこないし、メッセージの一本すら寄こさない。その態度に、苛立ちはじわじわ募っていった。
彼女は俺のことが好きなんじゃなかったのか? いくら駆け引きでも限度がある。婚約が消えそうだっていうのに、まるで焦る気配もないなんて。
正明は鼻で笑った。――自分から咲に連絡する気など、さらさらない。
数分後、正明は不機嫌そうな顔のまま、咲にLINEを送った。
「咲、今朝どうして俺の電話を切った?」
しかし、一分……
二分……
三十分と待っても返信はない。
「入力中」の表示すら、一度も出なかった。
雪村親子が去るや否や、雪絵は怒りにまかせて茶器を床へ叩きつけた。ひとしきり荒れてから、鈴木さんを振り返って命じる。「晶を連れ戻してきなさい!咲が善意で本当の娘の座を譲ったっていうのに、あの子は恩も忘れてネットに火をつけた。せいで咲は叩かれ、雪村家との婚約まで危うくなってるのよ!」
「お母さん」咲は雪絵の手をそっと握り、湯のみを差し出した。目覚めたばかりの柔らかな声で、優しく言う。「無理しないで。体を壊しちゃうよ」
咲の声に触れ、雪絵の怒りはわずかに落ち着いた。手渡された冷たいお茶を口にしながら、彼女は案じるように咲を見つめる。「咲、しばらくSNSは見ないで。あれこれ面倒なことは、お父さんと私が片づけるから。雪村家のことも婚約のことも、全部あなたのために動くわ」
咲は首を振った。「お母さん、平気よ。私、正明のことは好きじゃないし、この婚約だって最初から私のものじゃないもの」
しかし雪絵は信じなかった。咲が正明を見る目には、いつも隠しきれない想いが滲んでいたからだ。「咲、この件であなたが引く必要なんてないわ!晶に聞いてやりたい。妹の婚約者を奪うつもりで、どんな顔をするのかって!」
咲は思った。――あの大物に、正明なんて最初から眼中にないはずだ。
咲は穏やかに言った。「お母さん、姉さんは戻ったばかりで、岡本家と雪村家の婚約のことすら知らなかったはずです。そんな人が、最初から婚約を奪う算段なんてできるはずないでしょう?」