第9話:空虚な帰還
怜はスーツケースを引きずりながら玄関の扉を開けた。
「結衣、ただいま」
返事はない。
いつもなら玄関先で出迎えてくれるはずなのに、今日は静寂が家を支配していた。庭の薔薇も嵐の後らしく荒れ果てている。
「結衣?」
声を大きくして呼んでみるが、やはり応答はなかった。
怜は眉をひそめた。出張中、何度か電話をかけたが繋がらなかった。体調を崩しているのかもしれない。
リビングに入ると、テーブルの上に見慣れた物が置かれていた。
結衣の婚約指輪とスマートフォン。
「何だこれは……」
怜の心臓が早鐘を打ち始める。嫌な予感が胸を駆け上がった。
慌てて二階へ向かう。寝室のドアを勢いよく開けると——
クローゼットが空になっていた。
結衣の服が一着も残っていない。壁に飾られていた結婚写真も消えている。まるで最初から誰も住んでいなかったかのような空虚さだった。
「そんな……馬鹿な」
怜は呆然とクローゼットの中を見つめた。数日前まで確かにあった結衣の痕跡が、綺麗に消し去られている。
この数日間、結衣からの返信がなかったことを思い出した。あの時、胸に感じた冷たい不安が現実のものとなって襲いかかってくる。
階下で物音がした。
「結衣か?」
怜は慌てて駆け下りる。だがリビングにいたのは——
「お疲れさまでした」
魅音だった。手には怜のジャケットを持っている。
「これ、クリーニングから受け取ってきました」
「魅音……なぜここに」
「白鳥(しらとり)さん……いないの?」
魅音は辺りを見回しながら尋ねた。その表情には微かな困惑が浮かんでいる。
「実は昨日、白鳥さんとお話ししたんです。『ここを出て、二度と戻らない』って言ってた気がする……」
「何を言っている」
怜は即座に魅音の言葉を遮った。
「結衣が俺から離れるなんて、絶対にありえない」
断固とした口調だった。二十年以上連れ添った妻への絶対的な自信。結衣の愛は疑いようのない事実だと信じて疑わなかった。
魅音は小さく頷いたが、その瞳の奥で何かが光った。
実は魅音は、怜が出張に出る直前、リビングのゴミ箱に結衣の指輪とスマートフォンを捨てていた。結衣の失踪を決定的に見せかけるための工作だった。
「お食事、用意してあります」
魅音が提案した。