第02話:桜の木の下で
[氷月雫の視点]
朝の陽射しが、リビングに差し込んでいた。
昨夜はソファで眠ってしまったらしい。首筋が痛い。
携帯を見ると、刹那からの連絡はない。もう期待もしていなかった。
リユースショップの名刺を手に取る。昨日インターネットで調べた、評判の良い買取業者だった。
「はい、リユースプラザです」
「服やアクセサリーの買取をお願いしたいのですが」
「承知いたします。お品物の量はどの程度でしょうか?」
クローゼットを見上げる。刹那が買ってくれた服、二人で選んだアクセサリー、思い出の詰まった品々。
「......全部です」
「全部、ですか?」
「はい。すべて手放したいんです」
業者の男性は驚いた様子だったが、午後に査定に来てくれることになった。
電話を切ると、なぜか清々しい気持ちになった。
携帯に通知が入る。SNSのアップデート。
綾辻玲奈の投稿だった。
『今日は彼とお買い物♡ 新しいワンピース、たくさん買ってもらっちゃった!』
写真には、高級ブティックの紙袋がいくつも写っていた。
ああ、そういうことか。
私が手放すスペースに、すぐに玲奈の新しい服が並ぶのね。
まるで、私の存在そのものが消去されて、上書きされていくみたい。
でも、もういい。
もう、何も感じない。
かえでに電話をかけた。
「雫?どうしたの、こんな朝早くに」
「お疲れさま。今日、時間ある?」
「あるけど......何かあった?」
「一緒に来てほしいところがあるの」
「どこに?」
少し迷った。でも、かえでになら話せる。
「霊園」
電話の向こうが静かになった。
「......迎えに行く」
一時間後、かえでの車で郊外へ向かった。
「雫、何があったの?」
運転しながら、かえでが心配そうに聞いてくる。
「後で話すから」
車窓から流れる景色を眺めながら、私は答えた。
霊園は、静かな丘の上にあった。
桜の木が点在する、美しい場所だった。季節外れだけれど、枝ぶりから春の美しさが想像できる。
「樹木葬をご希望でしょうか?」
案内してくれた職員の男性は、丁寧な口調で説明してくれた。
「こちらの区画はいかがでしょう」
桜の木の根元。陽当たりが良くて、遠くに街を見下ろせる場所だった。
「素敵ですね」
心から、そう思った。
「お名前をお聞かせください」
職員がペンを構える。
「氷月......雫です」
「ご主人様のお名前は?」
「いえ」
私は首を振った。
「自分のために見に来たんです」
職員とかえでが、同時に私を見つめた。
「雫......」
かえでの声が震えている。
「仮契約をお願いします」
内金を支払い、書類にサインをする。
自分の墓を買うなんて、不思議な気分だった。でも、後悔はなかった。
帰りの車の中で、かえでが口を開いた。
「理由を聞かせて」
「......」
「雫、お願い。何があったの?」
信号で車が止まる。かえでが私を見つめていた。
「膵臓がん。ステージ4なの」
淡々と言った。
「もう......余命、一ヶ月だって」
かえでの顔が青ざめた。
「嘘でしょ?」
「本当よ」
「治療は?手術は?」
「もう手遅れなの」
かえでの目に涙が浮かんだ。
「どうして一人で......どうして刹那さんに言わないの?」
「言えない」
「なんで?」
「もう、私たちは終わってるから」
かえでが泣き始めた。私の代わりに泣いてくれている。
ありがとう。
そう思った瞬間、激しい腹痛が襲ってきた。
「うっ......」
「雫!」
「大丈夫......」
でも、痛みが引かない。冷や汗が額に浮かぶ。
「病院に行こう」
「だめ」
「雫!」
「家に......帰りたい」
意識が遠のいていく。
かえでの声が、だんだん小さくなって......
気がつくと、自宅のソファに横たわっていた。
「気がついたか」
刹那の声だった。
「茶番はもうやめろ」
冷たい声。心配の欠片もない。
「体調が悪いなら病院に行け。俺に迷惑をかけるな」
私は何も答えなかった。答える気力もなかった。
玄関のチャイムが鳴った。
「お疲れさまです」
女性の声。聞き覚えがある。
綾辻玲奈だった。
「雫さん、大丈夫ですか?刹那さんから連絡をいただいて」
心配そうな表情を作っている。でも、目は笑っていない。
「ありがとう、玲奈」
刹那の声が優しくなった。私に向けたことのない声で。
「少し仕事の電話をしてくる」
刹那が書斎に向かう。
二人きりになった瞬間、玲奈の表情が変わった。
「大変でしたね」
口元に、薄い笑みを浮かべている。
「でも安心してください。刹那さんのことは、私がちゃんとお世話しますから」
椅子に座り、足を組む。まるで、ここが自分の家であるかのように。
「このソファも、キッチンも、書斎も、そして......あなたたちのベッドさえも」
玲奈の声が、ささやくように低くなった。
「私はあなたが思ってる以上に、この家のことをよく知ってるわ」
氷水を頭から浴びせられたような感覚。
私はその場で凍りついた。
「何度も来てるの。刹那さんに呼ばれて」
玲奈が立ち上がる。
「あなたが知らないだけで、この家はもう私たちの愛の巣なのよ」
手が震えた。
「あなたたちのベッドで、刹那さんと......」
「やめて」
「気持ち良かったわ。あなたの匂いのする枕で」
限界だった。
私の手が、玲奈の頬を打った。
パチン、という乾いた音が響いた。
「きゃあ!」
玲奈が泣き崩れる。
「雫!」
書斎から刹那が飛び出してきた。
「何をしてるんだ!」
「刹那さん......」
玲奈が刹那にすがりつく。
「いきなり叩かれて......」
「雫!」
刹那の目が、怒りで燃えていた。
「謝れ!」
「私が?」
「玲奈に謝れ!」
刹那の手が、私の肩を掴んだ。
そして、力任せに突き飛ばした。