第04話:奪われた聖域
[氷月雫の視点]
かえでからの電話を切ったのは、昨日の夜だった。
「一緒に住まない?最期まで一人なんて、そんなの寂しすぎる」
優しい申し出だった。でも、断った。
もう誰にも迷惑をかけたくない。一人で静かに消えていきたい。
体の痛みは、日を追うごとに激しくなっている。昨夜も、ほとんど眠れなかった。
携帯に通知が入る。
綾辻玲奈からのメッセージだった。
最近、頻繁に送られてくる。刹那との旅行写真、二人で食事をしている写真、そして......刹那の寝顔まで。
以前なら、胸が引き裂かれるような思いをしただろう。
でも今は、不思議と何も感じない。
心が麻痺してしまったのかもしれない。
でも、今日送られてきた写真は違った。
見覚えのある玄関。見覚えのある庭。
私と刹那が、初めて手に入れたマイホーム。
あの思い出の家だった。
『私と刹那が昔住んでいた、あの思い出の家♡』
メッセージの文字が、目の前で踊った。
手が震える。
なぜ、玲奈があの家にいるの?
すぐに、次のメッセージが届いた。
『プレゼント。』
嫌な予感が、背筋を駆け上がった。
刹那の番号を押す。
『おかけになった電話番号は......』
着信拒否。
何度かけても、同じ音声が流れる。
いても立ってもいられなくて、タクシーを呼んだ。
「お急ぎですか?」
運転手が心配そうに聞いてくる。私の顔が、よほど青ざめているのだろう。
「はい......急いでください」
車窓から流れる景色を見つめながら、あの家のことを思い出していた。
結婚して二年目。刹那の会社がようやく軌道に乗り始めた頃、二人で必死に探した家。
「ここがいい」
刹那が笑顔で言った。
「雫と一緒なら、どこでも天国だ」
そう言って、私の手を握ってくれた。
小さな庭で、二人でバラを植えた。リビングで、夜遅くまで将来の夢を語り合った。
あの家は、私たちの愛の証だった。
タクシーが到着した時、目の前の光景に言葉を失った。
玄関が開け放たれ、工事業者が出入りしている。
家具が次々と運び出されていく。
私たちの思い出が、ゴミのように扱われている。
「やめて!」
思わず叫んでいた。
「やめてください!」
でも、誰も振り返らない。
作業は続いている。
私は家の中に駆け込んだ。
リビングの壁紙が剥がされ、床材が引き剥がされている。
あの頃の面影は、もうどこにもなかった。
「お客様、危険ですので」
作業員の男性が、私を制止しようとする。
「この家は......この家は私の......」
言葉にならない。
震える手で、刹那の番号を押す。
一回目、二回目......十数回目にして、ようやく繋がった。
「何だ」
冷たい声だった。
「刹那......あの家、どうして......」
「ああ、あの家、リフォームしてる」
悪びれる様子もない。
「玲奈が住みたいって言うから」
頭の中が、真っ白になった。
「そんな......」
「何か問題でもあるのか?」
問題?
問題があるに決まってる。
あの家は、私たちの......
でも、言葉が出てこない。
電話が切れた。
作業員たちが帰っていく。
私は一人、荒らされた家の中に取り残された。
壁に背中を預け、その場に座り込む。
時間の感覚がなくなった。
陽が傾き、やがて暗くなった。
それでも、私はそこにいた。
刹那が来るのを待っていた。
深夜1時近くになって、車の音が聞こえた。
刹那だった。
そして、助手席から降りてきたのは、綾辻玲奈。
「なんでこんなことするの」
私は立ち上がり、刹那に詰め寄った。
刹那は何も答えない。
「あらあら」
玲奈が家の中を覗き込む。
「もうこんなに壊しちゃってたんですね」
口元に、薄い笑みを浮かべている。
「すみません、雫さん。私がお願いしちゃったから」
わざとらしい謝罪。
でも、その目は嘲笑に満ちていた。
「この家が欲しい?」
私の声が震えた。
「いいか、はっきり言ってやる」
「絶対に渡さない」
玲奈の表情が、一瞬歪んだ。
「雫さん......」
「黙って!」
私は玲奈を突き飛ばした。
玲奈が壁にぶつかり、腕に擦り傷を作る。
「きゃあ!」
「雫!」
刹那が激昂した。
「たかが家ひとつで。今度は暴力か?」
たかが家?
たかが家ですって?
「狂ってきてるな!」
刹那の声が、私の名前を呼んだ。
「雫」
冷たく、軽蔑に満ちた声で。
「この家は、俺が金を出して買った家だ。どうしょうが俺の自由だ」
胸に、氷の刃が突き刺さった。
「それと、勘違いするなよ」
刹那の目が、私を見下ろしている。
「今、お前を養ってるのは誰だと思ってる?」