目の前に現れたのは――自分の妻だった。
そう、彼は人間界に戻ったあと、「普通の人間」として暮らすために、結婚という形を取ったのだ。
妻の名はヴィア・セリーナ。教廷に仕える一般神職者でありながら、その美しさは群を抜いていた。容姿だけでなく、仕事ぶりも真面目で安定しており、まさに誰もが羨む「理想の妻」だった。
人間界に戻った当時、ちょうど帝国では「沦落の地」から流れてきた難民に対し、厳しい管理体制を敷き始めた頃だった。
オルンスの町で足止めされ、追放寸前だったときのことだ。そのとき偶然出会ったのが、ヴィアだった。彼女は家族からの結婚の圧力と、仕事での行き詰まりという二重の重圧に耐えかね、川へ身を投げようとしていた。
そして――そのまま彼女を助け上げた。
「……結果的に、そのまま結婚することになった、というわけだ」
この出来事を思い返すたびに、ウェイは今でも「自分は運が良かった」としみじみ感じるのだった。
神職者であるヴィアの保証がなければ、帝国の正式な市民権を得ることなど、到底できなかっただろう。
もちろん、その代償として、結婚後の三年間はロタイ周辺に留まり、帝国による市民審査の期間を過ごさなければならなかった。
ちょうど相手の家族からの結婚催促という厄介な問題も片づくことになったため、ウェイは特に気にすることもなかった。
「ただ仕事が一区切りついただけなのに……貴族にでもなった夢でも見ていたの?」
ヴィアはウェイの手を払いのけ、冷ややかな声で言い放った。その瞳には――“これ以上、近づかないで”という明確な拒絶の色が浮かんでいた。
「あなたの帝国市民としての身分は、まだ審査の途中なのよ。変なことをすれば――その資格を取り消されるかもしれないって、わかってる?」
彼女は、いつだって話し方が冷たかった。
幸い、ウェイはそんな彼女の冷たい性格にもすっかり慣れていた。彼は肩をすくめ、自然な動作で両手を広げながら軽く言い返す。
「だから、離婚したあとの未来をちょっと考えてただけさ」
「それに、もう少しこまめに帰ってきてくれれば、こんなに退屈せずに済むのに。……最後に会ったの、二十日前だっけ?」
妻の教廷での職務は、さまざまな事件の後始末――いわば「清算」を担当する仕事だった。
たとえば、異端が現れた地域や悪魔が侵入した場所など――審判騎士たちが事態を収束させたあと、ヴィアは現場へ赴き、その後処理を行わなければならなかった。
ちょうど近ごろは、魔族と人間とのあいだで戦争が頻発しており、各地に潜伏していた邪神教会も次々と活動を再開していた。そのせいで、結婚後のヴィアの仕事の負担はほとんど限界に達していた。
もちろん、ウェイはその原因を――新しく就任した教皇のせいだと考えていた。
たとえ、かつて自分が交渉の場で教廷の上級神職の一部を潰した過去があるにせよ――ほかに人材を見つけることくらい、できないものなのか?
いつも半月以上も出張づけだなんて――まるでヴィアを牛馬のようにこき使っているじゃないか!
“無能なる教皇”の異名は、飾りではないな。
「金を稼ぐってのは、こういうもんだろ。仕事だから、そう簡単に断るわけにもいかないしな」
そう言うウェイの言葉を聞いたヴィアは、どこかぎこちない様子で顔をそむけた。
その神聖で高潔な冷ややかな表情は、少しも崩れない。まるで――最も敬虔で、最も純粋な女神の信徒そのもののようだった。
「それなら、俺が外に出て働いて、少しでも負担を分けるよ」
ウェイは深く考えもせず、当然のようにそう提案した。
「ダメ!」
言い終える前に、ヴィアの強い声がウェイの言葉を遮った。
「ただ、ロタイで安定した仕事でも探そうと思っただけさ。どうせ君が帰ってくるときはロタイ城を通るんだし、会えないってわけじゃないだろ……」
「ダメなものはダメ!」
ヴィアは即座に言い返し、その口調には一切の妥協がなかった。
「お前、ちょっとわがままが過ぎるぞ!」
しかし残念ながら、ウェイに引き下がる気配はまったくなかった。
突然、ウェイが顔をつかみ、凶悪な表情を見せた。
ヴィアは眉をひそめ、あからさまに苛立った様子でその手を払いのけ、逆に彼の襟元をつかんで強く引き寄せた。
次の瞬間――
二人のあいだの距離は、ゼロになった。
神聖な金色の瞳がゆっくりと閉じられ、唇に触れた瞬間、柔らかな綿のような感触が広がる。
厳かな空気は、時の流れとともに静かに溶けていき、口の中には、花と果実が混ざり合ったような甘い味が広がっていった。
まるまる三十秒が過ぎたころ、ようやく息苦しさを覚えたヴィアは、そっと手を放し、半歩だけ後ろへと身を引いた。
まるで何事もなかったかのように、ヴィアは静かに深く息を吸い込み、冷ややかな声で言った。
「これは、最近家を空けていた埋め合わせよ」
そして、金色の瞳を細めながら、もう一度念を押すように続けた。「最後にもう一度言うわ。お金を稼ぐのは私の役目。あなたは家にいてくれればそれでいいの。――それが、私たちが結婚したときの約束だったでしょう?」
確かに結婚当初、そんな取り決めをしていた。
契約結婚とはいえ、家事が苦手なうえに、帰ってきても誰もいない家にいるのは嫌だった。
だから、ヴィアがすべての生活費を負担し、月々の小遣いを渡す代わりに、ウェイは家で彼女の帰りを待つ――そんな約束になっていたのだ。
誰かが自分を養ってくれて、ただで美味しいご飯が食べられるなんて、まるで夢のような話に聞こえる。
……だが、いざ寝そべり生活を始めてみると――全然寝そべっていられない!
退屈すぎるのだ!
自然に目が覚めるまで寝て、お茶を飲み、新聞をめくる――そんなふうに一日をのんびり過ごせると思っている人がいるのだろうか?
いや、現実は違う。
退屈な「寝そべり生活」など、人生を堕落させるだけだ。何もしない日々は、人をただ食べて飲んで生きるだけの“廃人”へと変えてしまう。
外に出て働きたいという衝動は、もはや理性を押しつぶすほどに強く、
寝そべって幸せを感じたことなど――一度もなかった。
「じゃあ、約束を少し変えてみないか――」
「黙って。家に帰るわよ」
残念ながら、この女には訴えを聞く気など、これっぽっちもなかった。
そう言うと、ヴィアはウェイの手を強く握り返して振り向き、そのまま歩き出した。後ろをついていくウェイは、心の中で文句を垂れ続ける。
「夫の気持ちを考えないお前みたいな女は、そのうち報いを受けるぞ……」
「契約結婚が終わったら、お前を蹴り飛ばしてやる!極上のNTRの痛みを味わわせてやるぞ!」
今日は俺を無視しても、明日になればお前が後悔するだろう。
まさに「夫が追いかける火葬場シナリオ」だな。
結婚後の住まいは町の中心にあり、二階建ての小さな邸宅にはこぢんまりとした庭もついていた。内装も整っており、全体的にとても居心地のいい家だった。
床には、繊細な模様が刺繍された柔らかな絨毯が敷かれ、壁には美しい壁紙が張られ、部屋全体にほどよい華やかさを添えていた。さらに、高価で上質な家具が隙間なく配置され、まるで完成された調度品の展示室のようだった。
部屋のベッドに至るまで、特別に注文して買い揃えた豪華な品だった。
荷物を下ろしたヴィアは、ゆっくりと家の中を見渡した。
整然と片づけられたティーテーブルと食卓。そして――誰かがここに入った形跡は、どこにもなかった。
すべてに異常がないことを確かめると、先ほどまでの冷たい表情が、ほんのわずかに和らいだ。
「まあまあね」
しかし、乱れたままで片づけられた形跡のないベッドに目を留めると、ヴィアは再び眉をひそめた。
「このベッド、どういうこと?私がいない間、片づけもしなかったの?」
「今、昼寝したばかりなんだよ」
ウェイは困ったように言い訳した。
まるで姑が抜き打ち検査に来たかのような、妙な既視感に襲われながら。
「説明は結構よ。もうそれでいいわ」
――残念ながら、その言葉も無慈悲に遮られた。
軽く鼻先で匂いを確かめ、他人の気配がないとわかると、ヴィアはようやく淡々とした声で言った。そのまま、少し疲れたようにあくびを漏らしながら、部屋の中へと入っていった。
「夕食までは、邪魔しないで」
そう言い残し、ヴィアは立ち止まることもなくドアを閉めた。その音が静かに響く中、ウェイは反応する間もなく、その場に立ち尽くしていた。
「いや、この女……」ウェイは思わず顔をしかめた。
――この態度、ちょっと傲慢すぎるんじゃないか!
二十日以上も家を空けていたっていうのに、帰ってきて早々、この態度かよ?
たまには、自分でも顔から火が出るような行動をしてしまうことだってあるのに――。
それなのに、次の瞬間にはまた急に冷たくなる。まったく――この女が何を考えているのか、ウェイにはさっぱり理解できなかった。
「女って本当に難しいな。あの討伐隊を片付ける方法を考えるより、よっぽど手強い研究対象だよ」
「契約結婚が終わったら、お前を蹴り飛ばしてやる!それから教皇の娘を俺の姓にしてやるからな!」
先ほど買ってきた食材を眺めながら、ウェイは猫のように頬をふくらませ、不満げな顔で台所へと向かった。
「起きたら覚えてろよ」
まずは夕飯だ!
彼はそう思いながら、にやりと凶悪な目つきを向けた。
……
部屋の中。
ヴィアは無言のまま上着を脱ぎ、少し乱れたベッドに身を横たえた。
鼻先をくすぐるのは、懐かしい香りと新しい空気の入り混じった匂い――それだけで、張り詰めていた心が少しずつほどけていくのを感じた。
教廷での仕事は、想像していた以上に複雑で、息をつく間もないほどの激務だった。
全国各地で相次ぐ邪神による災厄、人知れず侵入してくる悪魔たち――そして、その混乱に乗じて広がる教廷内部の腐敗。それらすべてが、ヴィアの肩に重くのしかかっていた。
全力を尽くしてようやく仕事を片づけられたのが、この時間だった。
とはいえ、休めるのはせいぜい一日。すぐにまた任務へ戻らなければならない。
――それでも今だけは、ようやく訪れた束の間の休息のときだった。
ウェイが――さっき、ここで昼寝をした。そう、さっき昼寝をしたのだ……
頭を締めつけるような教廷の仕事のことを、今だけは忘れようとして――ヴィアはその言葉を、静かに心の中で繰り返した。
次の瞬間――。
もう抑えきれない衝動に駆られたように、ヴィアは勢いよく体を翻し、顔を布団に埋めた。
そして、思いきり――吸い込んだ!