第2話:決別の朝
[神凪刹那の視点]
翌朝、私は鏡の前に立っていた。
やつれた顔が映っている。頬はこけ、目の下には深いクマ。でも、これでいい。墓参りにはふさわしい顔だ。
黒いワンピースに袖を通し、髪をきつく結い上げる。右手の欠けた指を隠すように、黒い手袋をはめた。
リビングに向かうと、怜士がテーブルでみそ汁を飲んでいる。冬弥は新聞を読みながら、無言で朝食を摂っていた。
「おはよう」
私の挨拶に、誰も返事をしない。
怜士が私を見上げた瞬間、わざとらしく椀を傾けた。みそ汁が飛び散り、私のワンピースの胸元を汚す。
「あ」
怜士が口元に薄い笑みを浮かべた。
昔は違った。怜士は素直で、私の膝の上で絵本を読んでもらうのが好きな子だった。いつから、こんな風になってしまったのだろう。
私は怜士の腕を掴んだ。
「謝りなさい」
声が、自分でも驚くほど冷たかった。
「やだよ」
怜士が腕を振りほどこうとする。でも、私は離さない。
「謝りなさい」
「クソババア、火あぶりにされてたんだぞ!」
怜士の暴言が、リビングに響いた。
私の手が動いた。
パシン。
乾いた音が響く。怜士の頬が赤く腫れ上がった。
「刹那!」
冬弥が新聞を放り投げ、駆け寄ってくる。怜士を私から引き離し、庇うように抱きしめた。
「何してるんだ!」
「私は彼の母親よ。しつけて何が悪いの?」
私は冷静だった。驚くほど、冷静だった。
「お前、頭おかしいんじゃないのか」
冬弥が怜士の頬を撫でながら、私を睨みつける。
「心配しなくていいわ」
私は振り返り、玄関に向かった。
「もうすぐ私も、関わらなくなるから」
----
冬弥は刹那の言葉に困惑していた。
「関わらなくなる」とは、どういう意味なのか。昨夜から、妻の様子がおかしい。いつもなら、怜士に手を上げることなど絶対にしない女だった。
「パパ、ママが怖い」
怜士が震え声で呟く。
「大丈夫だ。ママは疲れてるんだ」
でも、冬弥にも確信はなかった。
----
[神凪刹那の視点]
車の後部座席で、私は沈黙を貫いていた。
冬弥が運転席で時々バックミラーを見ている。私の様子を窺っているのだろう。
「本気で怒ってるのか?」
返事をしない。
「刹那」
「何?」
「これ」
冬弥が助手席から小さな箱を取り、後ろに投げてよこした。
「結婚記念日のプレゼントだ」
私は箱を見つめた。
「頭おかしいんじゃないの?」
「謝れってことなんだろ?だったら今、謝った。それ以上、何が欲しいんだよ?」
冬弥の声に苛立ちが混じる。
「六年よ」
「何が?」
「結婚して、六年」
私は箱を開けた。中には小さなダイヤの指輪が入っている。
IX社の廃盤モデル。
私は知っている。この指輪のことを。
美夜が持っているのは、世界に一つだけの特注品。冬弥が彼女のために作らせた、オーダーメイドの指輪。
そして私に贈られたのは、売れ残りの廃盤品。
過去五年間、冬弥の不機嫌や気まぐれは、仕事の忙しさやストレスのせいではなかった。プレゼントをくれなかったのも、「ロマンチストじゃないから」ではなかった。
ただ、愛されていなかったから。
それだけのことだった。
私は無言で箱を閉じ、後部座席に投げ返した。
墓地まであと五キロという地点で、冬弥のスマートフォンが鳴った。
画面には「美夜」の文字。
冬弥は迷うことなく車を路肩に停め、電話に出た。
「美夜?どうした?」
声のトーンが、一瞬で変わる。私に向けたことのない、優しい声。
「そうか。わかった、すぐに行く」
電話を切ると、冬弥が振り返った。
「会社に急用ができた。お前、一人で墓参りに行ってくれ」
私は冬弥を見つめた。そして、ゆっくりと口元に笑みを浮かべる。
「新年の初日に、育ての親の墓参りより大事な仕事って、一体なに?」