第8話:最後の決別
[刹那の視点]
白い天井が目に映る。
病院の匂い。消毒液と薬品の混じった、あの独特な匂いが鼻をつく。
「気がつかれましたね」
医師が私を覗き込んでいる。
「手術は成功しました。幸い、内臓への深刻な損傷は避けられました」
私は何も答えなかった。ただ、天井を見つめている。
「通りがかりの方が救急車を呼んでくださったんです。ご家族の方は……」
「家族なんて、いません」
私の言葉に、医師が困惑した表情を浮かべる。
「でも、緊急連絡先に——」
「もう、関係ありません」
医師は何か言いかけたが、結局何も言わずに病室を出て行った。
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その頃、冬弥は美夜のマンションで朝を迎えていた。
「刹那のこと、心配じゃないの?」
美夜がコーヒーを淹れながら尋ねる。
「あいつは大げさなんだ。いつものことだよ」
冬弥は新聞を読みながら答えた。
「でも、血がたくさん出てたわよ」
「演技だろ。俺の気を引くための」
冬弥の声に、確信はなかった。
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[刹那の視点]
昼過ぎ、病室のドアが開いた。
美夜が入ってくる。
「あら、生きてたのね」
美夜が私のベッドサイドに立った。
「命だけは意外としぶといのね」
私は美夜を見つめた。この女が、私の人生を破壊した張本人。
「昨夜は大変だったでしょう?気絶の演技、お疲れさま」
私の言葉に、美夜の表情が一瞬強張る。
「何のことかしら」
「気絶の演技も、もう少し上手くやらないとね。あんなにきれいに倒れる人、見たことないわ」
美夜の顔が青ざめる。
「あなた、何を——」
「冬弥があなたを選んだのは分かったから、もう私の前に現れないで」
私は静かに言った。
美夜の目に、怒りの炎が宿る。
「あなたみたいな女に、冬弥を渡すわけにはいかない」
その時、病室のドアが勢いよく開いた。
冬弥と怜士が入ってくる。
「美夜!大丈夫か?」
冬弥が慌てて美夜に駆け寄る。
「冬弥……この人が、私を突き飛ばしたの」
美夜が涙を浮かべながら嘘をつく。
「何だって?」
冬弥の顔が怒りで歪む。
「刹那!美夜に何をした!」
私は何も答えなかった。もう、弁解する気力もない。
「わるいひと!」
怜士が叫びながら私に近づいてくる。
続いて怜士が小走りで近づき、いきなり刹那の腹部に拳を叩き込んだ。
「わるいひと!」
そこは、まさに傷口の上だった。鈍い痛みに襲われ、刹那の体は反射的に跳ね上がった。布団の下から、じわりと新たな血が滲み出した。
私は震える手でナースコールのボタンを押した。
冬弥の顔が一瞬青ざめる。
「看護師さん!」
駆けつけた看護師が、私の傷口から血が滲んでいるのを見て激怒した。
「何をしているんですか!患者さんは手術したばかりなんですよ!」
看護師が冬弥を睨みつける。
「あなた、この方のご主人でしょう?なぜお子さんを止めなかったんですか!」
さらに、看護師は美夜に向き直った。
「それから、あなた。さっき気絶のふりをしていたのを見てましたよ。人を馬鹿にするのも大概にしてください」
美夜の顔が真っ赤になる。
「そ、そんな……この人が嘘を吹き込んだんです!」
美夜が泣き落としの演技を始める。
「私は何もしていません!」
冬弥は再び美夜の味方をした。
「看護師さん、美夜は悪くない。妻が——」
「もういいです」
私が静かに口を開いた。
「美夜に謝れ」
冬弥が私に命じる。
私は冬弥を見つめた。この男は、最後の最後まで、私よりも愛人を選ぶのだ。
「いやです」
私の拒絶に、冬弥の顔が怒りで歪む。
「分かった。もう二度と見舞いには来ない」
冬弥は美夜と怜士を連れて、病室を出て行った。
その後、本当に冬弥は現れなかった。
離婚が成立した日、私は退院した。
自宅に戻り、最後の荷物をまとめる。美夜から送られてきた嫌がらせの写真と動画を、タイマー付きメールに添付した。送信時刻は、私がこの家を出てから一時間後に設定する。
離婚届を、リビングテーブルの最も目立つ場所に置いた。
玄関のドアに手をかける。
「もう二度と、会うことはない」
私は家を出た。
向かう先は、まだ決めていない。でも、もうこの場所に戻ることは——