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松本彰久(まつもと あきひさ)には叶わぬ恋の相手がいた。
世間では、その相手を除いて、もはや松本彰久の心に入り込める人はいないと噂されていた。
そんなある日まで。
松本家に新しい女主人が現れた。
入浴を済ませた黒田希咲(くろだ きさき)は、吉田補佐の案内で松本彰久の寝室に入った。
シダーウッドの香りのキャンドルカップの中でオレンジ色の小さな炎が揺らめき、寝室全体がシダーの香りで満ちていて、心に沁みる心地よさだった。
「カチッ」
背後では、吉田補佐が出ていく際に気遣って扉を閉めた。
希咲は周囲を見回し、少し緊張していた。それは未知のものに直面した身体の本能的な恐怖で、彼女は無意識に逃げようとしたが、ドアに辿り着く前に強い力で引き戻された。
天地がひっくり返るような感覚の中—
希咲は重く押し付けられると思い、事前に眉をひそめて覚悟したが、男性は彼女の隣に膝をついて跪き、半身で彼女の全身を覆うだけだった。
強い圧迫感が彼女を包み込んだ。
「松本...様」希咲の言葉はどうしても震えていた。
上から覆いかぶさる男性の声は、低く掠れていた。「お前は戻ってきたんだな。」
希咲の小さな体は急に硬直し、以前のようにひどく震えることはなくなった。
彼女ははっきりと理解していた。松本様が今言った「彼女」というのは、彼が心の底から愛している相手であり、今の彼女自身のことではないということを。
返事をすべきか迷い、黙ったままでいた。
暗闇の中、二人の鼻息が混ざり合う。
突然、希咲の顎が軽く持ち上げられた。
次に起こることは、言うまでもない……
……
希咲はぐっすりと翌朝の八時半まで眠った。
起き上がると、疲れ果てた身体を引きずって、階下のダイニングルームで朝食を摂った。
手元に置いてあった携帯電話がかすかに振動した。
希咲は食器を置き、電話に出た。「松本様?」
返ってきたのは昨夜の声ではなく、吉田補佐の声だった。「黒田さん、吉田です。松本様はすでにT国に到着され、今休まれています」
希咲は尋ねたかった。なぜ松本様は昨夜出国すると言わなかったのか、そして今電話をかけてきたのも松本様の補佐なのかと。しかし、それらの言葉は口元まで来たが、結局は口にせず、素直に返事した。「はい、わかりました」
向こう側は電話を切った。
希咲の口の中の朝粥は、突然味がしなくなった。
彼女は進んでこの身代わりになることを選んだのだから、文句を言う筋合いはなかった。
松本彰久は今の彼女に安定した生活を与えてくれる唯一の人物だった。彼女は父も母もいない孤児で、生活は散々だった。松本彰久に出会わなければ、まだ混沌とした泥沼の中でもがいているはずだ。
確かに、二人の結婚は三年間の契約に過ぎなかった。
しかしこの三年間、高貴な松本奥様として過ごし、豪華な服や装飾品を持ち、大邸宅に当たり前のように住める幸福感は、国民の99%を超える幸せだった。
身代わりなんて何でもない。
彼女は満足すべきだった。
-
三年後。
華やかな授賞式が放送スタジオで盛大に行われていた。
人気上昇中の若手女優・長谷川千早(はせがわ ちはや)が最優秀助演女優賞にノミネートされていた。
千早は壇上に上がり、先輩の手から賞を受け取ると、マイクの前で緊張しながらスピーチを始めた。「風台からこの栄誉をいただき、感謝します。私の会社、そして常に支えてくれるファンの皆さん、そして最後に感謝したいのは黒田さん、私のマネージャーです」
マネージャーに言及したとき、千早は前方の席にいる人物に視線を向けた。
同時に、事前にリハーサルされていたカメラも黒田希咲に焦点を合わせた。
すぐに、希咲の顔が舞台上の大きなスクリーンに映し出された。
スクリーンに映る希咲は、黒いドレスを纏い上品に座っていた。彼女はゆとりのある微笑みを浮かべており、その顔は舞台上の千早よりも人々の目を引きつけるものだった。
「この賞は私への励ましであり、また鞭でもあります。新しい年も引き続き努力し、より良い作品を届けます。ありがとうございました」
最後のスピーチを終えると、千早はドレスの裾を持ち上げ、拍手の中で舞台を降りた。
授賞式が終了した。
希咲は外に出ると、すぐに数人に道を遮られた。
「黒田先生、大久保監督がお話ししたいとのことです」
「黒田先生、岡田社長が今夜の会食にぜひご出席いただきたいとのことです」
「黒田先生…」
その人たちが伝言を終える前に、希咲は手を少し上げた。気の利く助手の和子(かずこ)がすぐに前に出て、それらの人々を遮った。
希咲はスタジオの向かいにあるホテルに戻った。
ホテルのロビーに着くと、希咲は三人の人物と出くわした。
先頭の男性は彼女の約半月会っていない夫、松本彰久だとわかった。
そして今、彼女の夫のそばには、助手のほかに、優雅な身のこなしの美しい女性がいた。
彰久は電話を受けており、目を上げて希咲を見たとき、まるで見知らぬ人を見るかのように、自然と視線をそらした。
吉田信司(よしだ しんじ)が希咲を見ると、足を止め、頭を下げて挨拶した。「黒田さん」
希咲は微笑んで尋ねた。「松本様はどうしてここに?」
「松本様は…申し訳ありません黒田さん、先に失礼します」吉田は多くを語れず、とりつくろって笑うと、急いで後を追った。
希咲は三人がエレベーターに入るのを見つめ、ドアが閉まる瞬間、彰久との目が合った。
「黒田先生」
背後から呼ぶ声がした。
希咲は振り向いた。
千早がドレスの裾を持ち上げて走ってきた。彼女は今夜受賞した湾曲したトロフィーを手に持っていた。「黒田先生、私、顔を上げましたよ」
今夜は冷え込んでいた。
希咲は千早のベアトップドレスを見て、身に着けていたCHANELのショールを外し、千早に渡した。「あなたは自分のために顔を上げたのよ」
「黒田先生の指導がなければ、今の私はなかったです」千早はショールを纏いながら、謙虚に言った。
希咲は穏やかに微笑んだ。
助手の和子が駆け寄り、尋ねた。「黒田先生、秦野会長が今夜の打ち上げにはいらっしゃいますかとお聞きしています」
希咲が答える前に、千早が確信を持って言った。「黒田先生は絶対行きますよ。今の華冠メディアは、黒田先生がっちり掴んできたリソースに全面的に頼って、どうにか持ちこたえているんだから」
「行かないわ」
千早の言葉が終わると同時に、希咲は行かないと言った。
千早は面目を潰されたとは思わず、むしろ驚いた。「黒田先生、本当に行かないんですか?」
希咲は顎をしゃくりと上げ、和子に言った。「打ち上げでは彼女が酒を飲みすぎないように監督して、十時までに家に帰ってメッセージをくれる?」
和子は頷いて承諾した。「わかりました、黒田先生」
千早は少し落胆し、去る前にトロフィーを希咲に手渡した。
二人を見送った後、希咲は千早から渡されたトロフィーを持ち、エレベーターで上階へ向かった。
彼女は彰久の「良い時間」を邪魔しないよう、自ら彼を探さないようにした。
しかし、偶然にも、上がってきたばかりで見るべきではない光景に出くわしてしまった。