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「美咲、帰ったのね!」
夜の十時。大塚美咲(おおつか みさき)が家の玄関を開けると、姑の小林母が珍しく満面の笑みで迎えた。
そして居間を見れば、小林家の面々が勢ぞろいしている。
美咲は皮肉に口角を上げた。まさか――自分が今日、小林グループの社長に就任したことを祝うためじゃないでしょうね?
大学時代に小林彰人(こばやし あきと)と知り合い、結婚して十五年。彼の家族は、田舎出身の彼女をずっと見下してきた。
そんな彼女が今や小林グループのトップに座ったのだから、この人たちが素直に喜ぶはずもない。
小林家には三人の息子がいる。彰人は末っ子だ。
けれど三兄弟そろって無能。会社を倒産寸前にまで追い込んだのを救ったのは、美咲ただ一人だった。
先代社長――小林父は、臨終の際に遺言を残した。「美咲を社長に据える。ただし彰人と離婚した瞬間、彼女も小林家から追い出すこと」と。
小林父は打算的で、彼女を小林家のためにこき使い、家の生活を支えさせるつもりだった。
そんな事情も知らずに、小林母子は「おまえは小林家のおかげで今がある」と得意げに言い続けてきた。
(私の力なら、どこの企業でも通用するわ。わざわざこの小林なんて小さな会社に縛られる必要なんてなかったのに……)
帝都に数え切れない企業がある中で、小林なんて取るに足らない存在だ。
「美咲さん、社長就任おめでとうございます」長男がいやみたっぷりに笑い、さらに次男が続けた。
「今日はおめでたいことが二つもあるんですよ!」
美咲が眉を寄せる間もなく、小林母が手招きをした。「さあ、早く子どもを連れてきて」
家族全員が何かを期待するように美咲の顔を見つめる。
振り返ると、彰人が三、四歳ほどの男の子を連れて入ってきた。
男の子は物怖じもせず、むしろ挑むような目で美咲を見上げてくる。
「美咲……」彰人はおそるおそる言った。「この子、俺たちの息子なんだ」
彰人が子どもの背中を押し、「ママと呼べ」と促す。
だが男の子は動かず、沈黙のまま、あざけるように彼女を見つめていた。
「子どもが緊張してるのよ。時間がたてば慣れるわ」と小林母が取り繕う。
美咲は冷たい声で問う。「何歳?誰との子?少なくとも私が産んだ覚えはないわね」
「……三歳だ」彰人が小さく答える。「でも安心してくれ、もう彼の母親とは別れた。俺はただ、子どもがほしかっただけなんだ」
「そうよ、美咲さん」長男の妻がわざとらしく口元を隠し、笑いをこらえながら言う。「あなたたち、結婚して何年も経つのに子どもができなかったじゃない?もう三十八歳でしょう?若い時にできなかったら、これからなんてもっと……ね。 でもこれで彰人が子どもを連れてきたんだから、産む苦しみを味わわずに済んでよかったじゃない」
「美咲、心配しないで。この子はこれからあなただけが母になるのよ。彰人も外の女とはきっぱり別れるって言ってるんだから」そう言いながらも、小林母の視線はずっと男の子に釘づけだった。
「……離婚しましょう」美咲の声は冷えきっていた。「この裏切りを受け入れるくらいなら、全部失った方がマシよ」
「美咲、おまえ分かってるのか?離婚すれば小林での地位も何もかも失うんだぞ!」次男が怒鳴る。
「ようやく小林グループの社長になっただろ!お前の今の全ては小林家が与えたものだぞ!」
「彰人はあなたの夫なのよ!子どもができないくせに、夫に子どもを持つなって言うの!?小林家を絶やす気!?」姑の叫びが響いた。
「絶えるわけないでしょう?」美咲が冷ややかに笑う。「長男さんの外にいる二人の息子と一人の娘、次男さんの外にいる一人の息子と一人の娘――それで十分じゃない?」
一瞬、空気が凍りつく。
長男の妻と次男の妻が同時に顔色を変えた。
「本当なの!?」「説明しなさいよ!」
次の瞬間、二人の女が夫たちに掴みかかり、家は修羅場と化した。
「やめなさい!もうやめて!」小林母が喉を枯らして叫ぶも、誰も耳を貸さない。
「美咲、あんたって子は!うちをめちゃくちゃにして楽しいの!? あの子を認めさえすれば、こんなことにならなかったのに!」
美咲は一言も返さず、静かに彰人を見た。「明日、弁護士から離婚の話がいくわ」
そう言い残して、騒ぎ立つ邸宅を後にした。
彼女は仕事が忙しく、よく徹夜で残業するため、便利さを考えて一年の大半は会社近くの自宅に住んでいた。
家に戻ると、彼女はいつものように運動服に着替える。
一日中仕事漬けで、帰れば小林家の修羅場。心身ともにすり減っていた。
こんな時はいつも、運動でストレスを発散していた。
ランニングマシンの速度を少しずつ上げ、無心に走る。だが、突然――胸に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
息ができない。身体がふらつき、床に倒れ込んだ。
心臓が締めつけられるように痛い。意識が遠のく中、自分の体が床に倒れたまま動かないのを、上から見下ろしていた。
夜が明け、太陽が昇り、補佐と管理人、警察が部屋に入ってくる。そして病院で死亡通知が下された。
次の瞬間、場面が変わる。
何年も会っていなかった弟――大塚浩司(おおつか ひろし)が、足を引きずりながら小林家の門を蹴破るように入ってきた。
彰人が愛人とその子どもを連れて家に入り、幸せそうに笑っている。
浩司は目を真っ赤にして彰人に殴りかかり、すぐに警備員に外へ放り出された。
思い出すのは、男尊女卑が染みついた祖父母。美咲にはいつも残り物、いいものはすべて弟や従兄弟に。
そんな家庭に嫌気がさして、嫁いでからは実家と縁を切った。弟のことまで遠ざけた。
けれど――あの幼い弟はいつも姉を慕っていたのだ。冷たく突き放したあの日の弟の寂しげな顔が、今はやけに鮮明に浮かぶ。
(……浩司。ごめんね。)
死んだ今になって、彼女のために怒り、泣いてくれるのは、その弟だけだった。
胸が張り裂けるように痛い。暗闇が再び、美咲を飲み込んでいった。