四万円も出して玉の指輪を買うなんて――どうしても納得がいかなかった。
それが「古玉」かどうかはともかく、たとえ本物の和田玉だとしても、詩織にはどうにも違和感があった。あの質感……きっと日本産じゃなくて、ロシア玉だ。
もちろん、今ではロシア玉も「和田玉」として扱われている。鑑定士だって両者を同じカテゴリーに入れるくらいだ。けれど詩織にとって「本当の和田玉」とは、日本で採れる、何千年の文化が宿る石のことだった。
ロシアの石とは、魂の重みが違う。
――でも、父のあの自信満々な顔を見たら、もしかして本物なのかも……?
そんなふうに考えると、胸の奥で何かがチクッとした。
(本当に古玉だったら……それはそれで、すごい話だ。)
詩織は昔から玉石が好きだった。ただ、いざ買おうとする時はいつも躊躇していた。間違って買ってしまったり、高く買いすぎたりするのが怖かったからだ。
だが貧乏学生の自分には、高価なものを買う勇気などなかった。
下手をすれば偽物を掴まされるかもしれないし、鑑定を頼めば数千円は取られる。
宝石や翡翠なんて、庶民には夢のまた夢だ。
「そうだ、詩織。この玉の輪は肌身離さずつけておきなさい。ただし、人前では見せないように。あの方がね、外に出すと良くないって言ってたんだ」
「良くないって……どういう意味?」
「詳しくは聞いてないけど、そう言ってたんだよ」
父の曖昧な返事に、詩織は首を傾げながらも頷いた。
翡翠というものは元々肌身離さず身につけるものだし、わざわざ外に出す人なんていない。夏に露出の多い服を着るときに見えるかもしれないが、詩織が唯一苦手なのがそういう露出の多い服だったので、注意されてもされなくても詩織にとっては同じことだった。
「じゃあ、父さん、私ちょっと部屋に行くね」
「ああ、食事の時に呼ぶから」
大事そうに箱を抱え、詩織は部屋に戻った。
――本当は、この玉をもう少しよく見たかったのだ。
さっき手のひらに乗せた瞬間、ほんの一瞬だけ、ひやりとした感触のあとに、体の奥まで温かさが流れこんできた。
錯覚にしては、あまりにリアルな感覚だった。
部屋に戻るなり、詩織は待ちきれないようにベッドの端へ腰を下ろし、手のひらの上に玉の輪をそっと乗せた。
だが――どれほど眺めても、何の変化も起きない。
さっき感じたあの温かさは、夢のように跡形もなく消えていた。
(……やっぱり、気のせい?)
――その時だった。
ふと、掌の奥から、あのぬくもりが再び溢れ出した。
「……まさか、異能ってやつ?」思わず口元が緩む。重生系の小説に出てくる主人公みたいに、チート能力とか超能力とか、ありえない力が芽生えた……?
「……いや、違うな」
首を振って眉をひそめる。
体のどこにも変化はないし、気の流れが見えるわけでもない。
普通なら――こういう展開なら、玉の中の霊気が見えたり、手に「力」が宿ったりするはず。
だが、目の前の玉はただの玉だった。花に変わるわけでもなく、光の粒に変化するわけでもない。
「……この玉、やっぱり何かあるのかな」
詩織の頭の中で、可能性が三つ浮かぶ。
一つ目、この玉は「空間系」の宝物。
二つ目、この玉はただの玉だけど、自分に異能ができた。
そして三つ目――全部妄想。
「……うん、三つ目が一番現実的かも」
苦笑いしながら、転生の興奮がまだ冷めきらない自分を少しだけ呆れる。
その時だった。
ふわり、と。
彼女の周囲に白いもやが現れた。最初は気づかないほど薄かった。だが次第に濃くなり、気づいた時には部屋中が白い霧で覆われていた。
「な、なに……?部屋が……どうして!」
詩織の声に反応するように、霧がうねる。
渦を巻くように収縮し、次の瞬間――ぱっと消えた。
残ったのは、玉の上に浮かぶ白い光の塊。
ぼんやりと揺れるそれは、まるで息をしているようだった。
よく見ると、光の端が玉と細い糸で繋がっている。
玉石をいくつも見てきたが、こんな現象は一度もない。
(これって……転生した私の力?)
(もしかして、本当に妄想なんかじゃなかった?)
胸が高鳴る。手にした玉を、まるで壊れ物のように大事に見つめた。
光のせいか、玉はさらに透き通って見える。掌の上の雫のようで、薄く光を反射している。
翡翠なら「ガラス種」もあるが、和田玉でこんな透明感を見るのは初めてだった。
乳白色の艶がほのかに滲み、温かいのに冷たい。
その矛盾した感触に、詩織の胸の奥で奇妙な感情が渦巻いた。
(……誰にも、見せたくない。)
それは、理由のない強烈な独占欲。気づいた瞬間、詩織は自分でも怖くなって、まばたきをした。
まばたきをすると、その感情はすっと消えていった。
「……この玉、もしかして魂を惑わすやつ? まるで昔話の妖狐みたいじゃない。」
肩の力が抜けて、思わず笑ってしまう。
「ま、どっちにしても、他の玉で試せばわかるでしょ」
そう呟きながら玉を箱に戻す。
その瞬間、母さんの「ごはんできたわよー!」という声が聞こえた。
「はーい!」
箱を机の引き出しにしまい、詩織は立ち上がった。
静かな部屋に、再び静寂が訪れる。箱の中の玉は光を失い、元の白い輪へと戻った。ただ、よく見ると、その周りにはまだ淡い白い霧が残っていた――それが何なのか、今の詩織にはわからなかった。
夕食の食卓には、詩織の大好物が並んでいた。
酢豚、トマトと卵の炒め物、煮込み豆腐――
どれも懐かしい、家庭の味。
「そうそう、詩織。さっき市場で村上紅(むらかみ べに)に会ったの。あなたが入院してたって聞いて、びっくりしてたわ。あとでお見舞いに来るって」
遠島千尋(えんとう ちよ)――詩織の幼なじみ。幼いころからずっと一緒だった。
けれど、その名前を聞いた瞬間、箸の動きが止まった。
(遠島千尋……)
頭の中に、あの最後の光景がよみがえる。
転生する前、屋上から落ちる直前――
視界の端に見えた、あの顔。遠島千尋。
「詩織、大丈夫?」
「ううん、平気。なんでもないよ」
「そう?なら、もっと食べなさい。入院した分、ちゃんと栄養つけないとね」
母さんは嬉しそうに笑いながら、娘の茶碗におかずをよそった。
その笑顔は、まるで春の日差しのようにあたたかかった。