状況は極めて不利。
となれば、退却も選択肢の一つである。トールはこれまでの経験と照らし合わせ、逃げることを選んだ。
「ブラン、何か意見は?」
「撤収することに賛成だ」
ブランがふわりと地面から浮き始めた。浮遊の魔法である。
「ほら、トール、さっさと逃げるぞ!」
「お、おうっ!」
浮遊の魔法は使えないが、足に魔力を集めて加速の魔法は使える。戦場では敵陣へ突入したり、離脱するのに重宝した魔法だ。自慢ではないが、そこらの馬より早く移動ができる!
――とはいえ、死竜を振り切れるかはわからないが……!
あの大魔獣も相当な俊足の持ち主だ。体の大きさもあって、一歩の幅も大きく、あっという間に距離を詰めてくる。
「トール、そのまま聞いてほしい」
ブランは、彼の傍らを飛びながら言った。
「おそらくだが、死竜は四体、もしくは五体に分裂している。お前が先ほど倒したのは、そのうちの一体だと思う」
「どうしてわかるんだ?」
「死竜にそれぞれ私の分けられた力を感じるからだ」
黄金郷の魔女は、よどみなく答えた。
「ただ十二体に分けられた割には、一体あたりの力が少ない。他に同型が二体現れたことで、その理由がわかった……というところだな」
そしてもう一つ――ブランは眉を下げた。
「さっきお前が倒した一体。おそらく復活する」
「!」
あれはアンデッドドラゴン。すでに死体であり、それが動いていたということは、倒したことが殺したことにならないということだ。
ちら、とブランが振り返る。
「やってきた二体が、倒した死竜に合流した」
トールは逃走していて振り返る余裕はないが、ブランは見た。
頭を失った死竜のそばに駆け寄った二体の死竜が辺りに睨みをきかせる。そうしていると、倒れ伏している死竜の潰れた頭がモゾモゾと戻りはじめた。
そして元の状態に戻ると、ちぎれた前足も再生し、立ち上がった。
「復活した……!」
「くそっ!」
せっかく倒したのが、また振り出しに戻ってしまった。
「トール、まずいぞ。あいつらこちらを追ってくる!」
「やられた恨みを晴らすってか!」
それはとんでもなくよろしくない状況だ。加速の魔法でどこまで振り切れる? どこまで追ってくる? アンデッドはすでに死んでいるから、疲れを知らないのではないか。
三体の死竜が追尾してくる! トールは心臓がギュッとしぼられているような感覚に襲われる。これほどのプレッシャーは、軍が敗走している時以来ではないか。
「急げ、トール! 後ろは見るな! 前へ! 前へ! 前へ!」
ブランが急かす。彼女は浮いていて、トールと同じ速度を維持している。何なら俺を置いて先に逃げてもいいんだぞ、と思った。
ちら、と彼女を見れば、後ろを向いて魔法の杖を構えていた。死竜が追いついてきたら、光の魔法などで妨害を試みるつもりなのだろう。
なんて頼もしい。ブランが同速でついてこれる上に敵を妨害できるなら、トールはひたすら前を向くだけでいい。
「背中を委ねることができるというのはいいことだ!」
「なんだ、トール? 何か言ったか!?」
「頼りになるって言ったんだ!」
トールは走った。加速の魔法を使って、ひたすら草原を駆けた。後ろは振り返らない。
どこまで走ったか。それは唐突に終わった。
「トール! 死竜が引き返していくぞ!」
ブランの声。それはようやく一息がつけるということ。トールは心の底からホッとした。足がそろそろ限界だった。
速度を緩めつつ、振り返れば、そこに死竜の姿はなく、遠ざかっていく後ろ姿だけが見えた。
「どうなっている?」
「おそらく、奴らのテリトリーの外に出たのだろう」
ブランもまた安堵すると、ふっと優しい顔つきになった。
「おめでとう、トール。よく頑張ったな」
「生きた心地がしなかったよ」
「大したものだ。死竜の足から逃げ切ったのだからな」
「何とか安全圏まで逃げ切れただけだ」
トールは肩をすくめた。明確にテリトリーで区切ってくれていなければ、まだ追いかけっこは続いていた。そしていずれ追いつかれていたに違いない。
「何にせよ、命拾いしたな」
トールは、傍らに着地したブランを見つめる。
「後ろを守ってくれてありがとう。助かったよ」
「私は何もしていない。ギリギリではあったがな。それよりトール――」
ブランの銀色の長い髪が風になびいた。
「見てみろ。正面の断崖の上。建物らしきものが見える」
彼女の言う通りだった。周囲の地形を改めて見回して、トールはその建物――廃墟の砦を見やる。
「ああ、着いた。あれが俺たちの目指していたライヴァネン王国の前線拠点だ」
この暗黒島調査のための、まだ各国が正規軍を派遣していた頃に建てられた拠点である。冒険者村を出て、死竜とかいう大魔獣に追い回されたが、目的としていた場所に辿り着くことができた。
「案外、何とかなったな」
「物事というのは、やってみたら意外にうまく行くこともあるものだ」
ブランは笑みを浮かべる。
「さあ、あと一歩だな。行くとしよう」
「そうだな……」
窮地を脱して、目的地が見えたことでトールの体に活力が湧いてきた。あれだけ加速しまくって体は限界に近かったが、それを忘れるほどに。