貨物船を両断した巨大海竜。その大きな蛇のような背中に乗ったトールは走った。
波の飛沫、対抗する風、不安定な足場。水で滑り落ちそうになるのを危機一髪、手で鱗をつかんで堪える。
衝撃で指先が痛かったがそれどころではない。ずぶ濡れになりながら、トールは何とか前――海竜の頭のほうへ向かった。
海竜が口を開き、海に投げ出された人間を海水ごと丸呑みにする。飛び散った船の残骸が跳ねてきたが、トールは構わず海竜の頭に取りついた。
海竜が泳ぐ時に真っ直ぐ進むおかげで、滑る頭をよじ登ることなく辿り着くことができた。沈没しつつある船の周りを周回しはじめたこともあって速度がだいぶ落ちてきた。風が弱まった気を逃さず、腰から下げた剣を抜く。急にこの粗末な剣で海竜の鱗を抜けるか不安になったが、今は勢いだ。
迷いを振り払い、海竜の額に剣を突き立てた。
バキリ、と剣が欠けた。いや折れた。やはり市販の中古の品では、海のドラゴンの頑丈な鱗を貫くことができなかったか。
聖剣が恋しい。聖騎士剥奪の際に武器まで奪われたのだ。
「剣が駄目なら……!」
トールはしゃがみ込み、海竜の額に手を当てる。さすがに海竜も自分の頭の上に羽虫のような人間が乗っていることに気づいた。だがその巨大すぎる体は、頭の上のものを払う腕はない。
海面から頭を上げて振り払うか、はたまた海中に没するくらいしか。
潜られたらおしまいだ! トールは手に魔力を集める。元聖騎士を舐めないことだ。神の加護は失ったが、魔法が使えないというわけではない。
ライヴァネンの聖騎士は、魔法と剣の二刀流だ。剣がなければ魔法で戦う! ありったけの魔力を集中し、それを海竜の頭の中、脳内に特大の衝撃波を撃ち込む。
「インパクトォッ!!!」
海竜の脳味噌に直接ぶつけた魔法の一撃は、ゼリーのように弾けた。その一瞬で海竜は絶命し、絶叫を上げることなく、大口を開けて海に沈んだ。
――やばい……!
トールの体もまた、海中に引き込まれる。極限まで魔力を集めて放ったので体に力が入らない。このままでは何もできずに溺れる……!
泳がねば。しかし頭で思っても体が動かない。力を使い果たせばこんなものか。視界が暗くなる。思考もまた麻痺してきたようだ。
このまま暗い海に沈んで、一人死ぬのだ。最期の相手が巨大海竜であったのは、元騎士としては誉れになるだろうか。
聖騎士の力を失い、普通であれば太刀打ちできないようなモンスターを相手に立ち向かい、それを倒した。
騎士の物語の終焉としては上出来だろう。惜しむらくは、それを語り継ぐ者がいないことと、追放されたとはいえ、かつての祖国。それを救うという目的が道半ばで閉ざされることか。
『ヴォーテクスの片割れを倒したのは、お前か?』
声? トールは薄れゆく意識を何とか保ちながら、ふっと聞こえた女性の声に思いを巡らせる。
聞き覚えのない声。そもそもここは水の中で、声が聞こえるはずないではないか。
『おい……人の話は――』
女の声もそこで途切れた。トールは意識を失ったのだ。
・ ・ ・
波の音がした。心地よく繰り返す穏やかな波音。まどろみの中、トールは目を開いた。
流れていく雲が見えた。時間としては夕暮れが近いだろうか。太陽の光を浴びて、雲の端が輝き、くっきりと輪郭を浮かばせている。
定期的な優しい波の音にどこぞの浜かと体を起こせば――
「おや、起きたか」
女の声が近くにして、そちらにトールの視線が行った。
長い銀色の髪の、うら若き美女がいた。その服装はどこの所属かは知らないが魔術師風。出るところはでていて、女性らしく優美なラインを描く体つきは艶やかであり、どこか神々しくもあった。
「一つ貸しだぞ、トール」
「俺の名前を――」
体が重いが、何とか起き上がる。確か海竜と戦い、海に投げ出された。そして今は浜辺にいる。貸しとは、あのまま沈むところを助けたという意味だろうか。運良く流れ着いたのでなければそういうことなのだろう。
「大丈夫か?」
女性はふらつくトールの体を支えた。
「すまない。とうやら助けられたらしいな。ありがとう」
「なに、私もお前のおかげで体を取り戻せた。礼を言うのはこちらのほうだ。ありがとう」
どういたしまして――トールは、何故彼女がそういうのか理解できなかった。
「俺の名前を知っているようだが……まず名前を聞いてもいいか?」
「ブランだ。見ての通り、魔術師だよ」
どこかからかうように女――ブランは薄い笑みを浮かべた。
「そうか、ブラン。覚えた。俺の知り合いにはいなかったと思うが?」
「そうだな。この暗黒島で初めて会った。何故知っているか教えてもいいが……お前は果たして信じてくれるかな?」
ブランは浜辺に腰を下ろした。
「名前の件は、お前の記憶を少しばかり覗かせてもらったからだ。大して深いところまでわかるわけではないが、お前が何者で、名前くらいはわかったということだ」
「記憶を覗いたのか……。そんな魔法は初めて聞いた」
トールが微妙な表情を浮かべれば、ブランは不思議そうに小首をかしげた。
「怒らないのだな。記憶を見たと言うと、大抵は気味悪がったり、怒りを露わにするものなのだが」
「……何も思わないわけではないが、溺れかけたところを助けられたんだ。その辺りは大目にみるさ」
どう助けられたかはわからないが、巨大海竜との戦いで力を使い果たして沈むだけだったトールを浜辺まで運んだのだ。恩があるのは間違いなかった。
「そういえば、船に乗っていたのか? 見かけた記憶はないが」
「……お前は私に話をさせる気はあるのか?」
「おっと、すまない。続けてくれ」
質問ばかりぶつけてしまい話の腰を折ってしまった。
「端的に言えば、私はお前の言う船には乗っていなかった。そもそも、私は普通の人間とも違うのだ」
「?」
「黄金郷の魔女――それが私だ」