「正気じゃない!」
心の中で毒づく。部屋の掃除がどれだけ大変かはさておき、斎藤蓮の牢の様子を見る限り、どう考えてもあれは精神力が暴走しかけていた。
そんな時に素直に牢を開けて中に入るなんて、自殺行為でしかない。
とはいえ、就任初日。時田菫はにっこり笑みを崩さずに答えた。「申し訳ありません、木村様。基本的に牢の扉は開けられない決まりですので」
木村宇吉も、それは頭では分かっていた。だが帝国が自分たちをこの監獄に放り込んだのは「死ぬまで放置する」ためだと理解しているからこそ、斎藤蓮の精神力暴走の姿を思い出すだけで、目の前の「帝国の使い」である雌に八つ当たりしたくなってしまう。
彼はギリッと歯ぎしりし、まだ食べ残していた食事のトレーを窓から投げ捨てた。パシャリと蓋が外れ、料理が床一面にぶちまけられる。
そして、嘲るように笑った。「じゃあ、これならどうだ?牢の外なら、お前が掃除しても問題ないよな?」
時田菫は歯を食いしばり、内心ムカつきでいっぱいだった。……が、なぜか脳裏に浮かんだのは、友達の飼い猫がマグカップを机から落とす光景。得意満面で笑う木村宇吉を見た瞬間、その姿と「翼でイタズラする極楽鳥の姿」が重なり、なぜか怒りが少し薄れてしまったのだ。
……やっぱりモフモフには甘くなっちゃう。それに、自分は筋金入りのモフモフ好き。
もっとも、木村宇吉には人をイラつかせる天才みたいなところがある。笑顔を少し引き締めて、彼女は一言。「分かりました」
そう言って、踵を返した。
「……っ」背後で木村宇吉の笑い声がさらに大きくなる。足早にその場を離れたところで、中村夏帆が呆れ声を上げる。「すげぇな、木村宇吉。あの雌、めっちゃ性格いいじゃん。お前あんな態度とったのに、笑顔で引き下がるとか、私だったら殴ってたぞ」
「ハッ。お前みたいなチビ獣が俺に手ぇ出せるわけねーだろ。まずは牢から出てから言えよ」
「てめっ、じゃあこっちに飛んで来いよ!一発勝負だ!」
「……ぷっ」木村宇吉は鼻で笑い、取り合わなかった。化形を維持できる時間は長くない。再び極楽鳥の姿に戻ると、もうすぐ雌が掃除に来ると思うだけで少し気分が晴れていた。
椅子をロボットに運ばせ、わざわざ牢の扉の前に座り込む。
一号ロボットが牢の掃除するのを目にして、時田菫はあることを思いついたのだ。ここには山ほどの「サービス用ロボット」がある。黒溟星監獄の設備は超ハイテクだし、管理人室の隅にも管家ロボットが待機している。
戻ってみると、そのロボットは床に落ちていた管理マニュアルを拾い上げてくれていた。
「助かる~」と微笑んだ時田菫は、そのロボットを連れて再び牢区画へ。
当然――掃除を自分でする気なんて、最初からゼロ。
そして牢前に現れると、ブルーの光壁越しに木村宇吉の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。
「……っ、この雌……俺を騙したな!?」
時田菫は「典型的美人顔」を持っていた。だがそれは派手さではなく、丸みのある瞳に薄桃色の唇、柔らかな雰囲気が警戒心を解かせるタイプの美貌だ。
その顔をほんのり困ったように歪め、彼女は小首をかしげる。「え?だって木村様が掃除しろって」
「俺はお前にって言ったんだ!ロボットじゃねぇ!」
パチパチと瞬きをして、長い睫毛が二度三度揺れる。「でも、私が連れて来たロボットですよ?私が連れて来たから、掃除ができる。つまり……私が掃除してるってことになりません?」
「屁理屈ぅぅぅっ!!」
木村宇吉はガタンと椅子を蹴り飛ばし、立ち上がった。怒りに爪が床をガリガリと削り、巨大な翼が牢内の空気を巻き上げる。
帝国四大家系のひとつ、木村家の唯一の後継者。帝都では逆らう者なしとまで言われた存在が、まさかこんな形でコケにされるとは。
彼の命令は、従者にとっては絶対。前任の監獄長ですら、「床に落とした食事を食え」と命じられれば逆らえなかった。
なのに目の前の雌は、華奢な体つきのくせに、図太くも彼の言葉をあっさりスルーしてくる。
隣の牢から、中村夏帆の爆笑が響いた。「ぎゃははっ!最高だな、時田の雌!」
木村宇吉のこめかみがピクつき、精神力暴走の兆しが広がっていく。激しい頭痛と胸の痛みに顔を歪めながら、せめて目の前のロボットを睨みつけ――「出てけぇぇぇ!!!」
怒号が牢を震わせる。翼の風圧で壁の鏡がガタガタ揺れた。
さすがの時田菫も、これ以上はマズいと判断。ため息をひとつ落とし、ロボットから布巾をひったくって床をサッサと二拭き。
「はい、これでOK」
あっさりそう言って、ロボットと一緒にその場を後にした。
木村宇吉は、その光景を見てフンと鼻を鳴らした。頭の奥にズキズキと響いていた痛みも、胸の締めつけも、少しだけ和らいでいく。
――まあ、あの雌性、カッコつけて二拭きしただけでも、一応は「自分で掃除した」ことになる。面子は保てた。
激しく羽ばたいていた翼がぴたりと止まり、牢内の揺れも次第に収まっていった。
隅っこで丸まっていた二号ロボットも、ようやくおそるおそる元の姿に戻る。
「へぇ~、やるじゃん。木村宇吉でも言い負かされる時があるなんてな」隣の牢から中村夏帆の大声が飛ぶ。
「誰がだよ!さっき見てなかったのか?俺が言ったら、ちゃんと掃除しただろ」
「……ほんとかぁ?」
夏帆は笑いに夢中でろくに見ていなかった。そもそも牢の構造的に、向かい側しかよく見えない。
「当たり前だ!俺が言えば、あの雌性が逆らえるわけねぇだろ!」
夏帆は思いっきり白い目をむいて、食事を平らげると、牢の中にある雪の泉で顔をゴシゴシ。顔をきれいに洗ったあと、にやりと笑った。
「よし。さっきはお前の遊びだったから、次は俺の番だな」
そう言って、牢の中の急助ベルをぽちり。
――チリリリリリ!
「……まだ椅子に座ったばっかりなんだけど」時田菫は思わず額を押さえた。赤い警報ランプ、今度は四号が点滅。
「……ほんと、よくもまあ次から次へと騒ぎを起こしてくれるわね」
しかし、もう慣れた。念のためロボットを連れて、四号牢へ向かう。
途中で二号の前を通り過ぎたとき、ちらりと中をのぞく。木村宇吉の部屋はすっかり静まり返っていたので、安心して視線を戻した。
そして辿り着いた四号牢。
中では――マヌルネコが雪でできた玉座に鎮座していた。白銀の雪を積み上げて作られた透明感ある氷椅子。彫刻のような模様まで施され、下には雪がふんだんに敷き詰められている。
……確かに、見た目はすごく精巧で豪華だ。でも。
視線を上げてマヌルネコの丸っこい姿を見た瞬間、時田菫は強烈な違和感を覚える。――子供が背伸びして大人ぶってるみたい。
なにせ、この生き物はあまりにもモフモフで、あまりにも愛らしい。しかも希少動物。
手のひらがむずむずする。あの毛並みをひと撫ですれば、どれだけ柔らかくて分厚いのか――想像するだけで我慢できなくなりそう。
中村夏帆も、その熱い視線に気づいていた。だが今までの雌性と違い、この雌の眼差しには奇妙な「好意」が混じっている。
欲望むき出しで食い殺すような視線じゃない。もっと穏やかで、包み込むような、あったかいまなざし。
……なんか、変な感じだな。だが、不思議と悪い気はしなかった。
牢獄生活はとにかく退屈。監獄長をからかうのは、数少ない遊びのひとつ。
彼はわざとそっぽを向き、四号ロボットに食事のトレーを外へ運ばせる。
受け取った時田菫は中を確認。――お見事。ご飯粒ひとつ残さず完食。
「すごいじゃない、全部きれいに食べて。えらいわ」
つい口からこぼれた褒め言葉。
その瞬間、中村夏帆のふてぶてしい丸顔が、真っ赤に染まった。
……なにこれ、特別だ。今までこんなふうに褒められたこと、ひとっつもなかったのに――。