朝靄が丘陵を覆う中、ルークとリリィはゆっくりと村を後にした。
背後では、昨夜まで焦げ土だった森が、朝露をはじく若葉で一面に輝いている。
枝先には小さく光る虫がまだ数匹とどまり、名も知らぬ花が淡く発光していた。
蘇った土からは、薬草の芽がむくむく顔を出していて、村の道端では子どもが小さな魔法灯をぶら下げながら、芽に水をやっている。
けれど、その豊かな光景を見送る村人たちの表情には、感謝と同じくらいの恐怖が宿っていた。
「助かったが……」
「人の手で、森がこんな早く……」
そんな生声がひそひそ流れてくる。
「必ず……また帰ってきましょう」
リリィが小さく微笑む。祈りにも似た声音だ。
ルークは短く笑って、会釈した。
「うん。また来るよ。飲み方は守って、と伝えておいてくれ」
二人は街道を歩き出す。澄んだ空気が頬を撫で、小鳥獣の甲高い鳴き声が木々の上で跳ねた。
リリィは道端の銀色の草穂を指で弾きながら、掌で白い花をそっと包む。
「薬は人を救うはずなのに……どうして、あんな目で見られるんでしょう」
「救済も破滅も、表裏一体だから」
ルークは穏やかな声で答え、肩のバンドを少し締め直した。
「怖がるのは普通だよ。だから説明を増やそう。飲む量とやめ時、紙に書いて渡す」
リリィはうなずく。
「次は、最初から渡しましょう。図も描きます」
——その時だった。
前方から規律正しい足音と、甲冑のぶつかり合う音が響く。朝霧の向こうに、数騎の小隊が現れた。
白銀の紋を刻んだ鎧、槍先に揺れる旗。先頭の女騎士は馬上で二人を射抜くように見下ろす。長い銀髪が陽光を受けてきらめき、眼差しは氷のように冷たい。
「この先の森が消えたと報告を受けてきた。何か知らないか?」
その声に、騎士たちがぴたりと足を止める。
リリィが思わず一歩出た。
「……この人が、解決しました!」
女騎士の瞳が細められる。
「何? 消滅した森を……再生した、のか?」
周囲の兵士たちがざわめいた。
「森を戻すなんて……」
「そんなことできるわけ……」
ルークは一歩前へ出て、落ち着いた調子で名乗る。
「薬師のルークと言います。怪しい者ではありません。森は──元に戻しました」
女騎士は鼻で笑い、名乗った。
「セリア・ブレードハート。私は薬師を信用しない」
そして、刃より鋭い言葉を突きつける。
「薬師に救われた命などない。あるのは死と絶望だけだ」
リリィは慌てて首を振る。
「違います! 森を蘇らせたんです!」
「蘇りは摂理を歪める。代償は必ず来る」
セリアは一歩も引かない。
「必要だから作った。ただそれだけです」
ルークは声を荒げず、静かに返す。
「使い方は、僕が責任を持つ」
セリアの銀の瞳に、憎悪の炎が揺らめく。
「……私の弟も薬師に殺された。治すはずの薬が、命を削り取った。薬師の手に救済はない」
緊張が張り詰めたその時。
地を震わせる唸り声が、森の奥から響いた。赤い眼光が霧を裂いて浮かび上がる。
「魔物だ……!」
誰かが叫ぶ。
狼型の魔物の群れが、牙を剥いて突進。
「迎撃態勢を取れ!」
セリアの号令で剣が抜かれるが、数が多い。隊列が崩れかける。
リリィは負傷兵へ駆け寄り、聖印を掲げる。
「癒やしの光よ!」
温かな光が流れ、噛まれた腕の血が止まる。
「助かった……!」兵士が泣き笑いする。
ルークは腰の薬瓶を一本抜き、短く告げた。
「巻き込むかもしれない、下がってください!」
そして前方へ投擲。
轟音と閃光。爆炎が群れをまとめて呑む。
「ぎゃああああ!?」
近くの騎士が巻き込まれて派手に吹き飛んだ。
ルークは走って近寄り、肩を支える。
「すいません、距離を見誤りました。息は?」
「ぜ、全然大丈夫じゃねぇっす!でも……すげぇ爆発だ!」
本人が自分で脈を触りながら、半分笑っている。リリィがすぐ光で擦り傷を塞いだ。
セリアは爆炎を睨み、吐き捨てる。
「……これが薬師のやり方か。力任せに命を弄ぶ!」
狼は怯まず迫る。セリアが銀剣を振り、鋭い斬撃で数匹を落とすが、包囲される。
「セリア隊長!」兵士の叫び。
ルークは瓶の中で粉末と液体を合わせ、肩越しに声を飛ばす。
「目、閉じて!」
「何だと──」
「閃光薬!」
炸裂。白光が視界を焼き、狼が一斉によろめく。
「っ……!」セリアの目が見開かれる。その隙に彼女は包囲を抜け、剣を水平に払って進路を切り開いた。
感謝はない。ただ冷たい横顔のまま、戦場へ戻る。
戦場は爆炎と血の匂いで満ちるが、ルークの手は止まらない。次の瓶を軽く振ると、中の液体が赤く発光した。
「離れて」
ドンッ──炎柱が立ち、群れの半分が吹き飛ぶ。
最後の群れが一斉に突進。兵士が下がる。
「下がれ!」
ルークは両手で三本の瓶を同時に投げ放つ。
轟音、閃光、爆炎。爆発の連鎖が大地を揺らし、狼の影は霧散した。
「……あんな爆発見たことねぇ!すげぇ!」
「薬師の力は……狂気そのものだな」
セリアが低く呟く。怒りが刃より鋭い。
焼けた土と鉄の匂いがまだ残るが、呻いていた兵も、リリィの光で次々と立ち上がった。
「これで……全部、癒やしました」
リリィが掌を下ろす。
「聖女様、あんたがいなきゃ全滅だった……」
視線はすぐルークへ移り、複雑な色を浮かべる。畏怖、動揺、そしてほんの少しの感嘆。
セリアが剣を払って血を落とし、鞘に収める。
「借りは返す」低く告げ、「だが誤解するな。お前を認めたわけではない」
ルークは肩をすくめるだけで、強くは返さない。
「わかりました…」
その背を見て、リリィが一歩前に出る。
「ここに救われた命があります。どうか……それを否定しないでください」
セリアは振り返らない。長い銀髪を風に揺らし、ただ背を向けて歩き去る。
「弟……必ず、仇を討つ」
誰にも届かない小さな声が、彼女の唇から零れた。
残された静寂の中。
ルークは薬瓶に触れ、ぽつりと言う。
「……やっぱり、怖がられてるな」
隣でリリィが即座に返す。
「でも今日も、誰かが救われました」
彼女の声は小さいのに、不思議と強かった。
「私は見ました。森を戻したあなたを。だから私は信じます」
ルークはわずかに目を見開き、息を整える。
「……助かったのは、君の回復もあってだ」
「じゃあ二人で、これからも助けましょう」
二人は再び街道を歩き出す。夕陽に照らされた道は長く、王都へ続いている。
ルークの腰の薬瓶が、橙の光を柔らかく返した。揺れるそれを、今度は自分の手でたしかに押さえながら。