宏樹には自分の家も持っている。
ただ、美優が実家にいるという理由で、彼はほとんどの時間も小川家で過ごしていた。
そのため、自分の家は空いたままになっていた。
しかし今や彼はすべての真相を知った以上、あの家は彼にとって一切の価値も持たない場所になった。
宏樹は詩織を峠にある別荘まで連れてきた。
「詩織、ここは好きかい?これからは兄さんが詩織とここで暮らそうか?」
詩織が顔を上げると、宏樹の優しさに満ちた瞳と目が合った。
こんな宏樹にはまだ慣れていないままだ。
この男はどういう風の吹き回しだろう?
突然こんなに変わるなんて、本当に適応のしようがなかった。
「ね、宏樹、いい加減真剣になってくれるよね?」
詩織は口元を引きつらせ、「兄さん」と呼ぶのもめんどくさく感じた。
宏樹は一瞬固まったが、結局何も言わなかった。
先ほど車の中で、彼は執事に連絡をしていた。
医者をこちらに呼ぶようにと。
そのため、彼らが家に着いてからまもなくして、小児病院の一流の医師たちが全員到着していた。
「小川社長、美優さんのご具合が悪いのですか?」
病院の高橋主任が媚びるような表情で近づいてきた。
以前は美優の不具合なら、全部彼が治療していた。
しかし今、宏樹は彼の顔を見るだけで目障りに感じた。
「今後、俺の家の娘は一人しかいない。それはここにいる詩織だ」
「そんな赤の他人の名前なんて、二度と俺の前で言うな」
高橋主任は、なぜ宏樹の表情が突然冷たくなったのか理解できなかった。
自分が何か間違ったことを言ったのかもわからず、何度も頷いて反論しなかった。
しかし心の中では不思議に思っていた。
小川社長はいつも小川家の次女を可愛がっていたのではないか?
長女の方はあまり大事にされていなかったはず。
どうして今日は逆になったのだろう?
もしかして小川家に何か変化があったのだろうか?
しかし、豪門の内情を詮索することは彼がやっていいことじゃない。
その程度のけじめくらい、彼もわきまえている。
一通りの検査の後。
高橋主任はほっと息をつき、取り入るような笑みを浮かべた。
「社長、お嬢様のお体に大した問題はありませんが、ちょっとした不具合でしたら、いくらかはあります」
「長期的な栄養不良による胃炎や低血糖、それからカルシウム不足などです」
「本日はまず、お嬢様に栄養剤の注射をさせていただきましょう」
注射という言葉を聞いて、詩織には何の反応もなかったが、傍らの宏樹はすぐに緊張した。
彼は反射的に隣の詩織を見た。
「詩織、注射が怖いなら、やめてもいいよ」
この言葉に高橋主任は驚いた。
目の前の優しすぎた宏樹を見て、彼は顔に驚きを隠せなかった。
この人は本当に彼の知っている、あの厳格で冷酷な小川社長なのだろうか?
小川家の末っ子のお姫様に対してさえ、社長はこれほど優しい眼差しを見せたことがなかったはずだ。
詩織はその言葉を聞いて軽蔑するように口をとがらせた。
「子供じゃないんだから、注射なんて怖くないわ!」
彼女はもう子供ではない。
その言葉に宏樹は笑いを漏らした。
「詩織はまだ10歳だけど、たとえ20歳になっても30歳になっても、兄さんの心の中ではいつだって子供なんだよ」
詩織は目をぐるりと回して、何も言わなかった。
この温かい態度は宏樹には本当に似合わないものだ。
「注射するんでしょ?早くして」
詩織は、この連中は何をするにもぐずぐずしていると感じた。
高橋主任は心の中で苦笑していた。
宏樹の許可なしに、詩織に注射なんてできるわけがない。
彼は宏樹を見て、了承の目を受けた。
それでやっと彼は行動に移せた。
詩織が注射を受けるというのに、宏樹のほうが彼女よりも緊張しているようだった。
「詩織、怖くないよ、怖くないから!」
「兄さんがずっとそばにいるから」
宏樹のくどくどした言葉に、詩織はいらいらして言った。
「静かにしてくれない?」
宏樹はぎょっとして、大の男が目に一瞬の悲しみを浮かべた。
高橋主任と一緒に来た医師や看護師たちは、この光景を見て心の中で笑いをこらえていた。
傍らの使用人たちもさらに口を抑え、笑い声が漏れないようにしていた。
こんな状況で笑い声を漏らせば、それは宏樹の顔をつぶすことになる。
自分の妹に怒られたにもかかわらず、宏樹はそれが恥ずかしいとはまったく思わない。
むしろ少し嬉しかった、詩織がついに彼を相手にしてくれたのだから。
嬉しい同時に、詩織に対する心の痛みもより強くなった。
詩織はまだ10歳なのに、こんなにも多くの健康問題を抱えているなんて。
彼は詩織をしっかりと世話し、体の調子を良くしてやらなければならないと思った。
前世の自分はきっと魔がさしていたのだろう、偽りの妹のために実の妹を何度も傷つけてしまったなんて。
幸い、神様は彼にやり直しのチャンスをくれた。
宏樹の視線は再び詩織に戻った。
その瞬間はちょうど、高橋先生の針が詩織の腕に刺さったときだ。
詩織はまったく眉一つ動かさなかった。
これも宏樹の心をさらに痛めた。
彼には覚えている。美優が注射をするたびに、小川家の人間が交代で彼女を慰めないといけなかった。
それで泣き叫びながらようやく一本の注射を終えるのだった。
あの美優に比べて、詩織はなんて強い子なのだろう。
こんなに幼いのに、注射をしても眉ひとつ動かさないなんて。
宏樹はため息をついて、目に宿る後悔の色が濃くなった。
注射が終わると、高橋先生は帰っていった。
「田中さん、今日の晩ご飯はお粥にしましょう」
「それからもう一つ、今後は詩織の言葉は俺の言葉のように聞き入れ、無条件に従ってあげてくれ」
宏樹は冷たく命じた。
この家には彼がめったに来ない。
しかしそれでも二人のメイドを雇って常に掃除をさせていた。
指示を聞いた田中さんはすぐに承諾した。
「社長、ご指示通りにお部屋の準備ができました。あなたのお部屋のすぐ隣です」
宏樹は頷いた。
「詩織、部屋を見に行こうか?」
詩織は頷くことも拒否することもしなかった。
宏樹は彼女を抱き上げて、二階へ向かった。
急に決めたことなので、この部屋は丹念に飾り付けられてはいなかった。
ただ丁寧に掃除されていただけだ。
どう見ても普通のゲストルームに過ぎない。
それでもこの部屋は詩織が以前住んでいた環境とはまったく違う。
比べ物にもなれないほどの良い部屋だ。
しかし宏樹はこの部屋を見回すと、頭の中で自然と美優が住んでいた場所を思い浮かべた。
美優の部屋は100平方メートルもあった。
バスルーム、おもちゃ部屋、何もかも揃っていた。
壁さえピンク色に塗られている。
プリンセスベッドも彼が高額を払って海外から買い付けたものだった。
「詩織、今日は急だったから、この程度の部屋しか用意できなかったけど。今すぐ人を呼んで飾ってあげようか?」
宏樹の目に懇願の色が浮かんだ。
しかし詩織は冷ややかに笑った。
これで彼女に償おうというのか?
彼女はむしろ余計なことだと思った。
どうせ小川家の人は彼女を大事に思ったことなど一度もなかったのだから。
詩織はそのまま部屋に入った。
「私は派手な物が嫌いなの」
美優が使っていたものは、彼女にとってはあまりにも幼稚すぎた。
だからこんな部屋はむしろ彼女の好みに合っている。
なぜなら、彼女は今までずっと物置部屋に住んでいたのだから。
きれいな部屋があるだけで、何よりの贅沢だろう?
しかし宏樹はその言葉を、詩織の強がりだと理解した。
10歳の女の子が、プリンセス風の部屋を拒否するわけがあるのだろうか?
彼は口元に苦笑いを浮かべ、心の中では、自分たちが妹を深く傷つけたことを再び痛感した。
あんなことをした後、一日や二日くらいで償えるものではない。
「じゃ詩織の好きな風にしよう」