彰人は車庫に向かい、そのまま会社へ戻った。
会社では夜遅くまで仕事に追われ、空がすっかり暗くなるころ、ようやく病院へと足を運んだ。そこには亡き長男を悼む祖母がいた。だが彼女の瞳には、次男である彼の姿などまるで映っていない。 彰人は特に感情を見せることなく、ただ冷ややかに看護師と家政婦へ「祖母の世話を頼む」と告げると、振り返りもせずに病院を後にした。「帰る」
車に乗り込むと、淡々とそう運転手に命じた。
十数分後――。
空はさらに黒く沈み込み、突如として烈しい風が吹き荒れた。稲妻が夜空を裂き、耳を劈く雷鳴が轟く。その直後、バケツをひっくり返したような雨が屋根を叩きつけた。
豪奢なロールスロイスが、ゆっくりと伊藤家の敷地内へ入っていく。
本来ならそのまま本邸の玄関前へと向かうはずだった。だが、庭の木々や花々が稲光に照らされ、激しく揺さぶられるのを見た彰人は、唐突に声を発した。
「……停めろ」
運転手は余計なことを言わず、すぐに車を止める。
彰人は傘も差さずにドアを開けた。 高い背丈のシルエットは、たちまち激しい雨の帳に呑み込まれていく。
庭の奥には大きな池があり、その畔には趣のある東屋が佇んでいた。
彰人はひとり東屋に立ち、険しい表情を浮かべながら、何を思うでもなく雨の帳を見つめていた。
、
美月は昼間、女中たちの噂話を偶然耳にした。
どうやら伊藤家の主たちはほとんど出払っており、屋敷に残っているのは次男、つまり昼間ぶつかってしまった冷ややかな男だけらしい。
だからこそ、彼女は決意したのだ。
夜更け、見張りたちが気を抜いた隙を狙い、この屋敷から逃げ出す、と。
彼女はここで、ただ大人しく子を産むために閉じ込められる気などさらさらなかった。
もし本当に妊娠してしまったなら、産んだ後は子どもを取り上げられるに決まっている。そうなれば、その子も自分と同じ――親の愛に恵まれぬ孤独な存在になってしまうだろう。
時は流れ、やがて深夜零時半。
外はまだ雨が降りしきっていたが、雷鳴も稲光もすでに止んでいた。
監視役の保镖や女中たちの何人かはすでに眠りにつき、残っていた者たちも気が緩んだのか、厨房でこそこそとつまみ食いをしているようだ。
好機――!
美月の胸は高鳴った。
そっと階段を降り、厨房の笑い声を避けながら、忍び足で玄関へ向かう。
音を立てぬよう慎重に扉を開けると、冷たい夜気と雨音が一気に押し寄せた。
成功だ。
安堵の息を吐き、彼女は振り返らずに扉を閉め、闇の雨夜へと駆け出した。
、
美月は生来、方向音痴というわけではない
逃亡を計画する前に、ある程度ルートも頭に描いていた。
しかし――伊藤家の敷地はあまりにも広大で、曲がりくねった道は迷路のよう。見慣れぬ場所も多く、走れど走れど外へ抜けられない。
数分後。
息を弾ませた彼女は、気づけば見知らぬ庭園の中に迷い込んでいた。花木が生い茂り、行き場を阻む。
……どうしよう……
頬を打つ雨を手で拭いながら、焦燥に唇を噛む。
せっかく監視の目をかいくぐったのに、ここで足止めされるわけにはいかない。
逃げなければ。今日しかない――!
彼女は心を奮い立たせ、前方に伸びる細道を選んで走り出した。
やがて、視界に大きな池と東屋が浮かび上がる。
そこを横切れば、きっと出口へ近づけるはず――。
そう思った矢先。
「……誰だ?」
雷鳴に似た低い声が、東屋の中から響いた。全身を刺すような冷気を纏った、その声が――雨夜の静寂を切り裂いた。