翌朝、蓮麻呂が目を覚ますと、いつものように小菊が正座して待っていた。しかし、今朝の彼女の表情には、微かな心配の色が浮かんでいる。
「おはようございます、若様」
「おはよう、小菊。今日も早いね」
「はい」
小菊は少し躊躇ってから口を開いた。
「あの……若様、最近お疲れのご様子ですが、お体の調子はいかがですか?」
蓮麻呂は軽く驚いた。確かに夜中の研究で睡眠時間は削られているが、それほど顔に出ているとは思わなかった。
「大丈夫だよ。少し本を読むのに夢中になってしまって」
「そうですか……」
小菊は安堵の表情を見せたが、まだ何かを言いたげだった。
「実は、昨夜も庭で物音がしていたようで」
また庭の話か。蓮麻呂は内心で焦ったが、小菊の様子には蓮次郎のような疑念は感じられなかった。純粋に心配しているだけのようだ。
「物音?危険なものかな?」
「いえ、そういうわけでは……」
小菊は困ったような表情を見せた。
「なんと言いますか、不思議な音なのです。まるで何かの術でも使っているような」
鋭い感性だった。蓮麻呂は小菊を見直した。侍女として長年屋敷に仕えているだけあって、霊的な現象に対する感度が高いのかもしれない。
「術の音?」
「はい。私の祖母が陰陽師の家で働いていたことがあって、その時の話をよく聞かされていたのです。昨夜の音は、それに似ていました」
これは予想外の展開だった。小菊が陰陽術について知識を持っているとは思わなかった。
「祖母上は陰陽師のお屋敷に?」
「はい。とても有名な先生だったそうです。祖母からは色々な話を聞きました。術式の音や、霊力の感じ方なども」
小菊の瞳に、懐かしそうな光が宿った。そして、蓮麻呂を見つめて続けた。
「若様も、もしかして夜中に修行をされているのではありませんか?」
直球な質問に、蓮麻呂は困惑した。否定すべきか、それとも……。
「どうして、そう思うの?」
「最近、若様の雰囲気が少し変わられたような気がするのです」
小菊は恥ずかしそうに俯いた。
「なんと言いますか、以前よりも……凛々しくなられたと言いますか」
確かに、前世の記憶を取り戻してから、蓮麻呂の内面は大きく変化していた。それが外見にも現れているのかもしれない。
「小菊は……陰陽術について、どの程度知っているんだい?」
「そう詳しくはありませんが……基本的なことは祖母から教わりました。五行の理論や、簡単な術式の見分け方など」
これは好都合だった。もし小菊が理解者になってくれるなら、研究を続ける上で心強い味方となる。
「実は……」
蓮麻呂は決断した。
「確かに夜中に修行をしているんだ」
小菊の瞳が輝いた。
「やはりそうでしたか!」
「でも、これは秘密にしてほしい。まだ人に話せるレベルではないから」
「もちろんです」
小菊は嬉しそうに頷いた。
「若様のお役に立てることがあれば、何でもおっしゃってください」
その純粋な忠誠心に、蓮麻呂は胸が熱くなった。この世界で初めて得た、本当の理解者かもしれない。
「ありがとう、小菊。君がいてくれて良かった」
「恐れ入ります」
小菊の頬がほんのりと赤くなった。
「私は若様のお役に立てるよう、精一杯努めます」
朝食の席では、いつものように兄たちとの微妙な空気が漂っていた。しかし、今朝の蓮麻呂は少し違っていた。小菊という理解者を得た安心感が、彼に新たな自信を与えていた。
「蓮麻呂、今日は何をする予定だ?」
道長が尋ねた。
「読書と基礎修行を行うつもりです」
「うむ、それがいい。基礎をしっかりと固めることが大切だ」
道長の言葉は相変わらず慰めるような調子だったが、蓮麻呂はもはや気にならなかった。
(いつか必ず、本当の実力を見せる時が来る)
蓮次郎が探るような視線を向けてきたが、蓮麻呂は平然と受け流した。小菊という味方がいる限り、完全に孤立することはない。
その日の午後、蓮麻呂は小菊と二人で庭を歩いていた。
「昨夜の修行は、どのようなものだったのですか?」
小菊の質問に、蓮麻呂は少し考えてから答えた。
「火術の改良を試していたんだ。従来の方法では効率が悪いと思って」
「改良……ですか?」
「うん。現代の……いや、新しい理論を応用してみたんだ」
危うく現代科学という言葉を口にするところだった。小菊には、あくまで独自の研究として説明する必要がある。
「すごいです」
小菊は感心したように言った。
「若様は本当に頭がお良いのですね」
「そんなことはないよ。ただ、違う角度から考えてみただけ」
「でも、それこそが大切なことだと祖母が言っていました。常識にとらわれない発想が、新しい技術を生むのだと」
小菊の言葉に、蓮麻呂は励まされた。確かに、現代科学の知識を陰陽術に応用するという発想は、この世界では非常識極まりないものだろう。
「小菊の祖母上は、賢い方だったんだね」
「はい」
小菊は嬉しそうに微笑んだ。
「いつか若様にもお会いしていただきたかったです」
夕暮れが近づく頃、小菊は蓮麻呂に向かって言った。
「若様、もし夜中の修行でお手伝いできることがあれば、遠慮なくお申し付けください」
「君も一緒に?」
「はい。見張りをしたり、道具の準備をしたり……私にできることはたくさんあります」
その申し出に、蓮麻呂は深く感動した。地位も身分も違う自分のために、ここまで献身的になってくれる小菊。彼女のような存在がいることが、どれほど心強いか。
「ありがとう、小菊。今度、一緒にやってみよう」
「本当ですか?」小菊の表情が輝いた。「楽しみです」
その夜、蓮麻呂は一人で研究を続けた。しかし、心はもう孤独ではなかった。明日からは小菊と一緒に、新たな陰陽術の開発に取り組める。
窓の外を見ると、小菊の部屋の灯火がまだ点いていた。きっと彼女も、明日のことを考えて眠れないのだろう。
(この世界で、本当に信頼できる人を見つけた)
蓮麻呂は小さく微笑みながら、術式の改良を続けた。小菊という味方を得たことで、彼の研究はより大胆に、より自由になっていくことだろう。