夜明けと共に、藤原家の屋敷は慌ただしく動き始めた。追放される蓮麻呂を護送するための準備が整えられている。庭には質素な馬車が用意され、武装した護衛兵が待機していた。
蓮麻呂は最後の朝食を家族と共にした。しかし、食卓の空気は重苦しく、誰も言葉を発しようとしない。
「蓮麻呂」
ようやく蓮太郎が口を開いた。その表情には、微かな後悔の色が浮かんでいる。
「兄上」
「……元気でな」
それだけだった。もっと言いたいことがあるような様子だったが、蓮太郎は最後まで本音を語らなかった。
蓮次郎は終始無言だった。時折蓮麻呂を見る視線には、複雑な感情が込められていたが、その真意を読み取ることはできなかった。
道長は息子の肩を叩いた。
「行け。新しい道を切り開くのだ」
「はい、父上」
蓮麻呂は深く一礼した。これが家族との最後の対話になるかもしれない。しかし、恨み言を口にするつもりはなかった。
屋敷の門前には、小菊が涙を流しながら立っていた。
「若様……」
「小菊、今まで本当にありがとう」
蓮麻呂は侍女の頭を優しく撫でた。彼女だけは、最後まで自分を信じてくれた。
「私、ずっと若様のご帰還をお待ちしています」
「ありがとう。でも、君も自分の人生を大切にしてくれ」
「いえ、私は若様のお帰りを……」
小菊は最後まで言い切れずに嗚咽を漏らした。蓮麻呂も目頭が熱くなったが、涙を見せるわけにはいかなかった。
「若様、お時間です」
護衛隊長が声をかけた。いよいよ出発の時が来た。
蓮麻呂は質素な馬車に乗り込んだ。持参できたのは最小限の荷物のみ。着替え、書籍数冊、そして父からもらった霊石。それだけが全財産だった。
馬車が動き出すと、屋敷が次第に遠ざかっていく。生まれ育った場所、家族、そして青春の思い出――全てが過去のものとなっていく。
「御曹司」
護衛兵の一人が声をかけてきた。その表情には明らかな軽蔑の色があった。
「何でしょうか?」
「妖怪と契約を結ぶとは、情けない話ですな」
他の護衛兵たちがくすくすと笑った。彼らにとって、蓮麻呂は既に罪人でしかないのだ。
「私はそのようなことはしていません」
「ほう、まだ否認するのですか」
護衛隊長が冷やかに言った。
「証拠も証人もあったというのに」
「それらは全て偽造されたものです」
「偽造……」
護衛兵たちが再び笑った。
「往生際が悪いですな」
蓮麻呂は反論をやめた。何を言っても信じてもらえないことは明らかだった。
馬車は都の街道を抜け、次第に人里離れた道へと向かった。周囲の景色も、だんだんと荒涼としたものに変わっていく。
「それにしても、鬼ヶ島とは災難ですな」
護衛兵の一人が同僚に向かって言った。
「ああ、あそこは妖怪の巣窟だからな。人間が長く生きられる場所じゃない」
「前の領主も、大妖怪にやられたって話だし」
「つまり、事実上の死刑ってことか」
彼らは蓮麻呂が聞いているにも関わらず、平然とそんな話をしていた。
(鬼ヶ島……確かに厳しい場所らしい)
しかし、蓮麻呂の心に恐怖はなかった。むしろ、新しい挑戦への期待の方が大きかった。
(隠れた実力を存分に発揮できる場所かもしれない)
都では政治的配慮で力を隠さなければならなかった。しかし、辺境の地なら、誰に遠慮することもない。
初日の夜は、街道沿いの粗末な宿で過ごした。護衛兵たちは酒を飲みながら大声で話していたが、蓮麻呂一人だけ離れた部屋に押し込められた。
食事も質素なもので、明らかに罪人扱いだった。しかし、蓮麻呂は文句を言わなかった。
(これも修行のうちだ)
前世の記憶があるおかげで、逆境を前向きに捉えることができる。この状況さえも、成長のための試練だと思えばいい。
二日目の夕方、馬車は山道で野盗の襲撃を受けた。
「うわあああ!」
護衛兵たちの悲鳴が響いた。十数人の武装した盗賊が、四方から現れたのだ。
「金目のものを全て置いていけ!」
盗賊の頭らしき男が叫んだ。護衛兵たちは慌てふためいている。
「どうする、隊長!」
「戦うしかない!」
しかし、護衛隊長は早々に戦意を失った。
「待て、待ってくれ!我々は罪人の護送中だ。金など持っていない」
「嘘をつくな!藤原家の馬車だろう?」
盗賊たちは護衛兵を蹴散らし、馬車に迫ってきた。護衛兵たちは蓮麻呂を見捨てて逃走を始めた。
「すまん、後は運を天に任せろ!」
護衛隊長まで逃げ出してしまった。蓮麻呂は完全に一人きりになった。
「ほう、若い貴公子じゃないか」
盗賊の頭が馬車を覗き込んだ。その目つきは明らかに悪意に満ちている。
「身代金が取れそうだな」
「ちょっと待ってください」
蓮麻呂は冷静に言った。
「私は追放された身です。身代金など期待できませんよ」
「追放?」
盗賊頭が眉をひそめた。
「何をやらかした?」
「妖怪と契約を結んだという濡れ衣を着せられました」
「妖怪と契約……」
盗賊たちがざわめいた。
「それが本当なら、こいつは危険だぞ」
「殺してしまった方がいいんじゃないか?」
盗賊たちが武器を構えた。蓮麻呂は深呼吸をした。
(ついに、実力を隠す必要がなくなったな)
都を離れて初めて、蓮麻呂は心の底から自由を感じていた。政治的配慮も、家族への遠慮も、もう必要ない。
「――申し訳ありませんが」
蓮麻呂は立ち上がった。その瞳に、これまでにない力強い光が宿っている。
「お相手させていただきます」
夕日を背に立つ蓮麻呂の姿は、まるで別人のようだった。彼はもはや追放された哀れな青年ではない。真の実力を秘めた、陰陽師であった。