哲也の穏やかに見える瞳の奥で、かすかな波が立ち始めていた。
彼は目を細め、深い瞳からこぼれそうになった苛立ちを隠し、低い声で言った。
「美佳、いま忙しいんだ。ふざけるのはやめろ。話があるなら、帰ってからにしてくれ」
彼は怒りを必死に抑えながらそう告げた。相手が食い下がってくると思っていたが、美佳は「そう」と一言返しただけで、あっさり電話を切ってしまった。
哲也は突然暗くなった画面を見つめ、数秒黙り込んだ後、会議室に戻った。
美佳が言い出した離婚の話を、ただの戯言だと決めつけた。
「続けてくれ」
美佳が冗談半分で口にしたと確信していたが、なぜか離婚の話を聞いたその瞬間、いつもは揺れない心に妙な焦燥が走ったのだ。
「この企画案で進めよう。以上。解散」
会議が終わり、哲也が会議室を出ると、アシスタントの山下健太がすぐ後ろにつき、これからの予定を伝えた。
「社長、フランスにもう一晩滞在しますか?それともすぐに帰国しますか?」
哲也は眉間を揉みながら数秒考え、短く答えた。
「今すぐ帰る」
健太は目を丸くした。ボスがこんなに急いで帰国するとは予想外だったが、
余計なことは聞かずに準備に取りかかった。
電話を切った後、美佳は普段着と日用品をいくつかまとめ、仕事用のパソコンを手に部屋を出た。
階下に降りると、志穂がまだリビングにいて、彼女のスーツケースを見ると皮肉の表情を浮かべた。
「美佳、そんな茶番まだやるの?本当に出て行くなら二度と戻ってこないでよね。でもどうせ数日で我慢できなくなって、図々しく帰ってくるでしょ。あなたが恥ずかしくなくても、こっちが恥ずかしいわ」
美佳はその嫌味を一切無視し、目も合わせずに時田家を出て行った。
「奥様」
運転手がスーツケースを持とうとしたが、美佳は首を振った。「いいわ、自分で運転するから」
十数時間後、哲也のプライベートジェットが時田家の裏庭にある着陸場へと静かに降り立った。
すでに夜の九時を回っていた。
「若旦那様、おかえりなさい」
「ああ」
哲也は淡々と応じ、スリッパに履き替えて中へ入る。その目は無意識にリビングを見回し、何かが欠けているような違和感を覚える。
「哲也、おかえり」
志穂は上機嫌で階段を降りてきた。「疲れたでしょう?早く上がってシャワーを浴びてゆっくり休んで」
「ああ」
眉をわずかにひそめながらも、違和感の正体にはまだ気づかない。
「フランスであの子と楽しく過ごせた?」
志穂の横を通り過ぎるとき、彼女が突然こう尋ねてきた。
哲也の足が一瞬止まり、目には戸惑いの色が浮かんだ。
「誰のこと?」
志穂は「瑠花」と言いかけたが、何かを思い出したように首を振った。
「何でもないわ、早く休んでて」
哲也は考え深げに彼女を一瞥し、うなずいて寝室へ向かった。
寝室のドアを開けると、目に飛び込んできたのは真っ暗な部屋。光がひとつも見えない。
足を踏み入れた瞬間、ふと動きが止まり、妙な違和感を覚えた。
そしてようやく理解した。帰宅したときに感じた、あの違和感の正体を。
いつもなら真っ先に腕の中へ飛び込んでくるお転婆な彼女の姿が、今夜はどこにもなかった。