Chapter 4: 木村彩と仲睦まじいあなたを見た
Editor: Pactera-novel
車は彼の方へと静かに滑ってきた。
彰人は満足げに口角を上げ、
助手席のドアに手を伸ばす。
だが――
轟音と共に、
穂香はアクセルを踏み込んだ。
車体が風を切りながら彼の横をすり抜け、
残したのは大量の排気ガス。
顔面にまともに浴びた彰人は、ガソリン臭にむせそうになり、奥歯がきしむほど怒りを押し殺した。
命令を無視するとは……
彼女はまさに——
――上等だ。
……
屋敷を離れた穂香は、南区のカフェへ直行した。
彼女は「買い手」を待っている。
離婚後の生活のために、もう一度結婚指輪を売らなければならないのだ。
兄の治療費、離婚後の住まい、そして仕事を探すまでの生活費。すべてに金が要る。
前回はすぐに彰人に嗅ぎつけられたから、今回は友人を通じて相手を見つけ、自ら足を運んだ。
十分ほど待つと、個室の扉が音もなく開く。
――来た！
「こんにち——」
そう思って立ち上がった瞬間、目が合ったのは買い手ではなく、冷え切った鋭い視線。
「……なぜ、あなたが？」
彰人が冷ややかに現れた。
その目には嵐が渦巻いている。穂香は、もし視線に殺傷力があるのなら今頃もう骨も残らないだろうと感じた。
「俺の言葉を聞き流したつもりか？」
彼は個室に入り、彼女の正面に腰を下ろす。
細められた瞳からにじむのは、冷たい怒り。
先ほどの排気ガスだけでも十分に逆鱗に触れていたのに、
指輪を売ろうとしていると知って、
――まさに火に油だ。
穂香は黙り込む。
現行犯で捕まったのだ、言い訳など無意味だった。
その態度に、彰人は思わず嗤う。
「ふん」
長い指で机をトントンと叩きながら、皮肉を含んだ声を投げつける。
「俺の許可もなく、この霧の都でお前の指輪を買う奴がいると思うか？」
穂香の胸が沈んだ。
やはりこの指輪は、どう足掻いても売れない。
前回はせめて前金を受け取れたが、今回はそれすらない。
兄の治療費は……どうすればいい？
落胆する彼女の耳に、冷たい声が差し込む。
「――そこまでして、何が欲しい？」
氷のような口調に苛立ちと不可解が混じる。「闘っているつもりか？お前は」
何が欲しい？
まだ、彼女がただ駄々をこねていると思っているのだ。
穂香は自嘲気味に息を吐き、目を逸らさず告げた。
「離婚よ」
彼女はとても冷静にその言葉を吐き出した。
その二文字に、彼の指先が止まり、顔が鉄のように硬直する。
「斎藤穂香、俺の忍耐には限度がある」
穂香の胸がしめつけられた。
「忍耐」――そう、誰にだって限界はある。
彼女は長い間、自分の熱を彼の冷たさに押し付け続けてきた。
だが得たものは、
冷遇と無視、そして家族からの軽蔑と侮辱。
「いいだろう、明日の朝、四面山で日の出を見に行く」彰人は一方的に告げる。
彼女が沈黙しているのを、折れたのだと解釈したのだろう。
穂香は男の施しのような調子を聞きながら、心臓が少しずつ締め付けられる感じがした。
四面山――恋人たちの聖地。
男女が日の出を手を取り合って迎えれば、永遠に結ばれるという言い伝えがある。
かつては夢見ていた光景。けれど今の彼女には滑稽にしか映らない。
けれど今の彼女には滑稽にしか映らない。
まるで
「これ以上駄々をこねるな。妥協しておけ」とでも言うように。
「……いらない」
穂香は真っ直ぐに彼を見据えた。
「もう一度言うわ。清水彰人、私はあなたと離婚する」
言い終えると席を立ち、そのまま去っていく。
黒い表情で見送る彰人。
――まだ足りないと？
譲歩してやったはずなのに、まだ不満だと？
まさに…
貪欲にも程がある！
……
「彰人、何をするんですか？！」
穂香がカフェを出た瞬間、彼に手首を掴まれた。
怒りを孕んだ顔で無言のまま、彼女を路肩の車へと引きずる。
歩幅が合わず、穂香はよろめきながら必死についていく。
「放しなさい、彰人――っ！」
叫ぶ間もなく、彼女は後部座席に押し込まれた。
穂香は怒りで言葉を失った。
すぐに反対側のドアを開けて逃げようとすると、
「あっ！」
あっさり引き戻され、
勢い余って彼の胸に叩きつけられる。
石壁のような体は微動だにせず、衝撃を受けたのは自分の方だった。
全身に痛みが走り、目に涙が滲む。
「――理由は？」
噛みしめるように問う彼の声。
離婚だと？
なら、理由を言え！
穂香は唇を噛み、答えを拒む。
「言え！」
鋭い声に、ようやく彼女は吐き出す。
「……見たのよ」
彼女は突然言った。
「何を？」彼は眉をひそめた。
「仁心病院、6-8号室、あなたと、木村彩を」彼と視線を合わせ、感情の色を消して告げる。
彰人の瞳がわずかに揺れ、
すぐに細められる。「……俺を尾けたのか？」
「ふふ」穂香は嗤う。
「そんな暇はないわ。清水彰人、あなたの心にあるのは最初から最後まで木村彩だけ。だから離婚して。二人で勝手にどうぞ」
口にした途端、胸に鋭い痛みが走った。
だが――長引く痛みよりも、いっそ今ここで終わらせた方がいい。
自分の目で、彼が他の女に優しくする姿を見てしまったのだから。
彼女はもう、自分を騙せない。
彰人は黙って彼女を見つめる。
その視線は鋭く、彼女の心を暴こうとするかのよう。
――つまり、この二日の彼女の態度は……
嫉妬？
そう気づいた瞬間、彼の怒りは半分ほど消え去り、
表情が和らぐ。
「……お前、病院に何をしに？」
彼は彼女の話題に答えず、疑わしげに尋ねた。
「言ったでしょ、お腹が痛かったって！」
彼女はきつく噛み、声を荒らげた。
心にはやはり怨みがあった。
「そ、それは……あんたが――」
彼女は反射的に叫んだ。「それはあなたが——」
言いかけて、
顔が赤くなる。
下品な話題に触れるのが恥ずかしくて、視線を逸らす。
その反応で、彼は察した。
「……力を入れすぎたか」
彼の視線が、彼女の下腹部へと落ちる。
穂香は慌てて脚を閉じ、窓の外を向く。
その沈黙こそが答えだった。
「傷めたのか……」
思い返せば、あの夜は酒を飲んでいた。
しかも相手が「精がつく」とか言っていたあの酒――。
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