第6話:五年間の重み
[雪音の視点]
大学の事務室で退職届を提出した時、同僚たちの視線が私に集まった。
「雪音さん、本当に辞めちゃうんですか?」
若い助手の田中さんが、驚いたような顔で私を見つめている。
「ええ」
「結婚されるんですよね。専業主婦になるなんて、羨ましいです」
周りの同僚たちも、口々に祝福の言葉をかけてくれる。
私は静かに首を振った。
「結婚式は、中止になりました」
その場の空気が一瞬で凍りついた。
「え......?」
「研究に専念することにしたんです。失礼します」
私は足早にその場を後にした。
家に帰ると、一週間ぶりに冬夜の姿があった。リビングのソファに座って、紅と何かを話している。
「おかえり」
冬夜が振り返った。その隣で、紅が私を見上げて微笑んでいる。
「お疲れさまです」
紅の声は相変わらず甘ったるい。
私は無言で靴を脱いで、リビングに向かった。
「あれ?」
冬夜が部屋を見回している。
「なんか、荷物減ってない?」
「不要なゴミを整理しただけよ」
私は冷静に答えた。
紅がくすくすと笑った。
「雪音さんって、几帳面なんですね。私なんて、片付けが苦手で......冬夜さんにはいつも迷惑をかけちゃって」
そう言いながら、紅は冬夜の腕に寄りかかった。
「そうそう」紅が急に明るい声を上げた。「冬夜さんと旅行に行ったんです。温泉も入って、美味しいものもたくさん食べて......あ、それから」
紅の目が輝いた。
「ウェディングフォトも撮ってもらったんです。すごく素敵に撮れて......雪音さんにも見せてあげたいくらい」
私の胸に、鈍い痛みが走った。
「そう」
「でも、雪音さんには申し訳ないことをしちゃって......」
紅が急に目を潤ませた。
「私のせいで、雪音さんの撮影がなくなっちゃって......本当にごめんなさい」
涙を浮かべながら謝る紅を見て、冬夜の表情が険しくなった。
「雪音」
冬夜が私を睨んだ。
「紅が謝ってるだろ。何か言うことはないのか?」
私は何も答えなかった。
「雪音!」
冬夜の声が荒くなった。
「紅はお前に気を遣って謝ってくれてるんだぞ。それなのに無視するなんて......」
「いいんです」紅が冬夜の袖を引いた。「雪音さんも疲れてるんですよ。きっと」
「そうだな」冬夜が立ち上がった。「今度、三人で食事でもしよう。紅へのお礼も兼ねて」
私を見下ろして、冬夜が言った。
「絶対行けよ」
それは命令だった。
レストランで、冬夜は店員に細かく指示を出していた。
「セロリは抜いてください。彼女、苦手なんで」
紅の嫌いなものを完璧に把握している。
「雪音には、エビのパスタで」
冬夜が私の分まで勝手に注文した。
料理が運ばれてきて、私は箸を手に取った。
でも、口に運ぶ前に気づく。
「私、海鮮アレルギーなの」
私は箸を置いた。
冬夜の動きが止まった。
「え?」
「エビ、食べられないの」
ほんと、笑えるよね。五年も付き合っていたのに、冬夜は私が海鮮アレルギーだってことを知らない。けど、紅の苦手なものは完璧に覚えている。セロリを避けるみたいな細かいことまで。
「ごめん......知らなかった」
冬夜の顔が青ざめた。
「他のものを注文し直そう」
「いいの」
私は水のグラスを手に取った。
「お腹空いてないから」
食事の間、私は水だけを飲んでいた。冬夜は何度も謝ったけれど、私は何も答えなかった。
食後、私のスマートフォンが鳴った。
研究室の先輩からだった。
「はい、雪音です」
『明日から例のプロジェクトが始まるけど、準備はできてる?』
「はい」
『念のため確認するけど、一年か二年は外部との連絡が取れなくなるからね。本当に大丈夫?』
私は冬夜の方を見た。彼は紅の腰に手を添えて、優しくエスコートしている。
「結婚式は中止になりました」
『え?』
「もう、離れる準備はできてます」
その時、背後から声がした。
「誰が、離れるって?」
振り返ると、冬夜が戸惑いの表情で私を見つめていた。