翌朝早く、谷川美咲は藤井彰の腕の中で目を覚ました。
彼女はお腹の上に置かれていた手をそっと外し、身を起こそうとした。だが、ベッドから降りようとした瞬間、その手首を掴まれた。
彼、どうしてこんなに眠りが浅いの?
「どこに行くんだ」寝起きのせいか、彼の声は少し掠れていて、どこか怠惰な響きを帯びていた。
「今日は映画のオーディションがあるの」
彰はゆっくりと目を開けた。「何時から?」
「十時くらい」
「場所は?」
美咲は昨日、山口瑞希から送られてきた住所をスマホで探し出し、そのまま彼の前に差し出した。
彰は画面をちらりと見て、手を離した。そしてベッドから降りながら、淡々と告げた。「送っていく」
シャツのボタンを留めながら、付け加えた。「ちょうど通り道だ」
撮影に備えて、美咲は本当は朝食を抜くつもりだった。だが彰は、五、六人分もの朝食を買ってきて、残した分まで食べろと譲らなかった。
結局、美咲は朝食をきっちり食べきり、おまけに満腹になった。
そして本当に彼の言う通り、オーディション会場は彰の会社のすぐ近くだった。
美咲の姿が遠ざかるのを見届けても、彰はすぐに車を出さなかった。窓を少し下げてタバコを一本取り出し、火をつけて深く吸い込んだ。
一本吸い終えると、携帯を取り出してひとつの番号を押した。
呼び出し音が二度も鳴らないうちに、電話の向こうから声がした。「藤井さん?」
彰は指先で軽くリズムを取りながら、低く静かに言った。「聞いたぞ。今度の映画、新しい主演女優のオーディションをしてるらしいな」
相手は一瞬沈黙し、それから笑い声を混ぜて答えた。「どうした?いい人材でも紹介してくださるんか?」
「ああ。今日オーディションに来ている谷川美咲って女優、悪くないと思ってな」
ここまで言われて、陸奥監督が察しないわけがなかった。だがその作品の主演はすでに内定済み――オーディションはただの形式にすぎなかった。
とはいえ、彰に逆らう勇気など彼にはない。これまで撮ってきた作品のほとんどは藤井家の出資が入っていた。彼が監督として名を上げられたのも、彰の支援あってこそ。もし逆らえば、この業界ではもう生きていけない。
(藤井さんが女優を推すなんて、珍しいことだ……)
しかし今回の映画はすでに他の投資家によって主演が決まっている。その女優こそ、陸奥が心から気に入っていた人物だった。
彼はしばらく言葉を濁し、ようやく口を開いた。「藤井さん……その、来年の作品でしたら――」
彰はタバコの火を消し、目を細めた。「陸奥。今の状況が見えてないようだな」
その声に、陸奥は一瞬で青ざめた。「じ、実はこの映画の投資家は佐藤昭彦(さとう あきひこ)でして……彼が斎藤沙耶(さいとう さや)を主演に決めているんです」
佐藤昭彦――まるで皮肉な巡り合わせだった。彰の瞳が冷たく光り、声が鋭くなった。「主演を変えろ。資金は全部僕が出す。後のことは気にするな」
そこまで言われては、陸奥に反論の余地などなかった。金を出す者が絶対。彼はただ「承知しました」とだけ答えるしかなかった。
陸奥監督は自然な美しさを重視するタイプだったため、美咲はナチュラルメイクで挑んだ。
会場には芸能界に入ったばかりの新人だけでなく、すでに主演経験のある女優たちの姿も多く見えた。今日の競争は熾烈になるに違いなかった。
山口瑞希が水を取りに立ち、戻ってくると、美咲はソファに腰かけ、膝の上で台本をめくっていた。「美咲さん、緊張しないでね」
「うん」
美咲はそれほど緊張していなかった。結果がどうであれ、やるだけやればいいと思っていた。
そのとき、遠くでざわめきが起こった。二人が顔を上げると、会場の空気が一変していた。
藤田秋穂が美咲の腕をぎゅっと掴み、興奮した声を上げた。「美咲さん、あれ……斎藤沙耶よ!彼女もオーディションに来てる!」
秋穂の興奮も無理はない。沙耶は名実ともにトップクラスの女優。デビュー作で国内の主要な映画賞を総なめにした実力者だ。そのときのニュースの見出しはどれも彼女の名前で埋め尽くされ、一夜にして国民的スターとなった。
美咲も驚いたが、すぐに表情を落ち着かせた。(確かハリウッドで活動してたはずなのに……いつ戻ってきたの?)
――ということは、昭彦さんも……
「彼女、こっち見てる!」秋穂が囁いた。
「来るわよ!」
……
沙耶は艶やかに歩み寄ってきた。一挙一動に品があり、誰の目も釘付けにした。
「美咲さん、久しぶりね」
まさか彼女が大勢の前で声をかけてくるとは思わなかった。美咲は少し間を置いてから、穏やかに微笑んだ。「お久しぶりです、沙耶さん」
沙耶は美咲より三歳年上で、同じ団地の出身だった。
この一言で、山口瑞希も藤田秋穂も目を丸くした。特に瑞希は、長年美咲のマネージャーをしていながら、二人に繋がりがあるとは知らなかったのだ。
沙耶は完璧な角度で口角を上げ、柔らかく微笑んだ。「前から聞いてたの。あなたも芸能界に入ったって。本当だったのね。中学のころから“女優になりたい”って言ってたの、覚えてるわよ。夢が叶って本当に嬉しい」
美咲も穏やかに微笑んだ。「ありがとう」
本当にそんな話をしたかどうか覚えていない。けれど“女優になる”という夢だけは、確かにずっと胸の中にあった。
高校生の頃、沙耶が映画に出演していると聞いて心底羨ましかった。一時期は彼女を憧れの存在として見ていて、「私もいつか彼女みたいに全国で知られる女優になる」と彰の前で言い放ったこともあった。
彼に笑われると思っていた。だが、あの毒舌な彰がそのときだけは何も言わず、ただ遠くを見つめていた。
「来月、私と昭彦さんは婚約するの」沙耶はそう言って美咲の隣に腰を下ろした。周囲の視線など気にも留めない。
この知らせを聞いたとき、美咲の目に驚きの色が浮かんだが、それ以上に彼らのために嬉しさを感じた。結局、沙耶と昭彦は大学時代から付き合っていて、才色兼備で釣り合いのとれた二人は、業界では有名なカップルだった。
「本当?それなら昭彦さんとあなたにはお先におめでとうと言わせて」美咲は心から二人のために嬉しく思った。昭彦さんはついに沙耶さんと結ばれるのだ。