上司への対応を終えると、吉田くきはパイナップルのコールドブリューをテイクアウトした。
カフェのドアを押し開けると、外から熱波が押し寄せ、くきは足を止めた。そして突然、大事なことを思い出した――田中彰のlineを追加できなかったことを伝え忘れていたのだ。修理代を払う気がなかったわけではない。
額に汗が噴き出し、くきはコーヒーを手に持って引き返した。
金田修は副社長と小声で話していたが、視界の端に影が近づくのを感じ、横を向くと戻ってきたくきだった。彼女の顔にはためらいがちの表情が浮かんでいた。
「何か用?」金田修は不思議そうに尋ねた。
「社長、その……」くきは口ごもりながら言った。「田中社長の連絡先をお持ちですか?」
「持ってはいるが」修はじっと彼女を見て、ためらうように言った。「何のために?」
くきは頭を回転させ、もっともらしく答えた。「いずれ雲瀾グループと提携することになるでしょうし、連絡先があれば役に立つかと」彼女は真剣な目で約束した。「ご安心ください、わきまえていますから。迷惑はかけません」
金田修の表情が和らぎ、スマホで番号を探しながら冗談めかして言った。「驚いたよ。田中社長に気があるのかと思った。以前は会ったことがなかったが、あんなに整った顔立ちとは知らなかったな。ぱっと見は芸能人みたいだ」
くきは本当に驚き、慌てて手を振った。「とんでもないです!十の度胸があっても無理です」
――迷惑をかけなければ御の字。どうして想いを寄せるなんてできるだろう。
「送ったぞ」修は言ってスマホをテーブルに置いた。
「ありがとうございます」くきは宝物のようにスマホを抱き、「では失礼します」
小走りでカフェを出て部屋に戻ったくきは、その番号でAlipayを検索してみた。すると本当に出てきた。
表示された(*彰)はきっと田中彰に違いない。
くきはまず車に詳しい友人に、ロールスロイスが写真のように損傷した場合の修理費を聞いてみた。もちろん写真は甘粕葉月の車載カメラから切り取ったものだ。
友人の冷やかしは避けられなかった。【すごいな小吉、ロールスロイスにぶつけるなんて。宝くじでも当てて金の使い道に困ってるのか? 言ってくれよ、この前気になった車があるんだ。大学生だから買ってよ】
くき:【恥知らず。三十歳の大学生が何言ってんの】
冗談はさておき、友人の仕事は早く、すぐに見積もりを送ってきた。
くきは四捨五入して金額を決め、即座に振り込むことにした。振込メッセージは五十字以内という制限があり、何度も書き直した末、最終的にこう送った――
【田中社長、吉田です。こちらは修理代です。正確ではないかもしれません。不足分があればご連絡ください。改めてお詫び申し上げます】
ついでに友達追加もタップした。後で何かあったとき連絡が取りやすい。
すべてを終えると、くきは体を後ろに倒してソファの背に寄りかかり、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
*
田中彰が一段落ついたとき、携帯に振込通知が入っていた。不思議に思って開いてみると、メッセージを見てすぐに事情を理解し、眉を上げた。
「それ何?」畑中樹はいつも人のプライバシーを覗きたがる。田中が笑みを浮かべたように見えたので、好奇心から身を乗り出した。
田中彰はすばやくスマホを伏せ、簡潔に言った。「修理代だ」事実を述べただけだった。
「そういえば、後部をぶつけられたんだったな」樹は納得すると興味を失い、姿勢を正して書類を待った。
田中は再びスマホを手に取り、メッセージを見た。彼女はlineなら受け取らないと心配したのだろうか?
少し考え、友達追加を承認して一言送った。【賠償はいらないだと言ったはずだ】
すぐに返事が届いた。【私も必ず払うと言いました。田中社長、もう断らないでください。お金に困っていないのは分かっていますが、払わないと気が済みません!どうか受け取ってください】
田中彰は思わず笑ってしまい、もう諦めるしかなかった。
「今、笑った?」樹は目を丸くし、田中の顔を指さした。「長いつきあいだが、お前の笑顔なんて初めて見たぞ。若いのに顔面麻痺かと思ってた」
田中は唇を引き結び、さらりと言った。「見間違いだ」
「いや、見間違いじゃない」樹は再びスマホを覗き込み、また新発見をしたように声を上げた。「なんだよその趣味。Alipayでチャットって。間違いない、Alipayだろ」
田中彰は眉をひそめた。「僕こそ聞きたい。なんでそんなに他人のスマホを覗きたいんだ?」
樹は非を認め、議論をやめた。そして少し考えて結論を出した。「お前、絶対何かあるな」
*
翌日、くきの初出張は終わり、大阪から帝都へ大物たちと共に戻った。
休む間もなく新しい仕事が待っており、独楽のように忙しかった。
くきは時間をみっちり管理するのが得意で、毎日エネルギーが尽きることなく、八つの仕事を掛け持ちしても疲れ知らず。友人からは「天選の社畜体質」とからかわれていた。
夕方五時過ぎ、仕事を終えたくきは果物をたくさん買い込み、親友・酒(さけ)さんの家へペットを迎えに行った。
インターホンを押すと、しばらくして中から声がした。「はーい、今行くわ」
足音が近づき、ドアが開いた。酒は顔にパックを貼り、頭にふわふわのウサギのカチューシャを巻き、足首までのネグリジェ姿で片肩を落としていた。口が動かしにくいようで、声はこもっていた。「ありがたいわ、やっと来てくれた。早くあんたの犬連れて帰って。本当にもう無理」
くきは笑ってスリッパに履き替え、腕をさすった。「エアコン、そんなに低くしてるの?」
酒はパックを剥がしてゴミ箱に捨て、声がはっきりした。「全部あんたの犬のせいよ。暑がりなんだから」
リビングに入ったくきはあたりを見回したが、愛犬の姿はなく、大声で呼んだ。「鈴ちゃん、ママ帰ったよ!ママに会いたかった?」
床を「カタカタ」と爪の音が響き、もふもふの半トレーラーが部屋から飛び出してきて、くきに突進した。
くきはしゃがんで両腕を広げ、迎え入れた。
体重八十キロを超えるアラスカン・マラミュートが飛び込み、大きな尻尾をプロペラのように振り回し、前足を彼女の肩にかけた。
勢いで押し倒され、床に座り込んだくきは笑い続けた。「この数日、酒おばさんの言うこと聞いてた?」
酒おばさんが代わりに答えた。「聞くわけないでしょ。朝六時前に起こされて、起きなければ勝手にドアを開けて部屋に入り、ベッドに飛び乗って私の頭を踏むし、よだれを顔じゅうに垂らすし。外に出たら大はしゃぎで、足が折れそうになるまで走らされたわ」
くきは愛犬の性格を知っていたので大笑いした。「生活リズムを整えて、ついでに体力づくりしてくれてるんだよ」
「ありがたいことね」酒は犬の頭を撫でた。「もう食事の時間だし、うちで食べてく?」
「あなたが料理するの?」
「私が料理するわけないでしょ。デリバリーよ」酒はスマホを手に取った。「焼肉でいい?」
「何でもいい」くきは犬と遊びながら言った。「新しい小説の準備は?」
「まだネタ集め中。今月は始められないわ」酒はスマホを投げ出した。「あなたの話し方、編集者みたい」
「でも違うでしょ」くきは笑った。「私は急かしたりしないから」
酒は目をくるりと回し、ソファから立ち上がってくきの横に座り込み、肩を軽くぶつけた。「この数日のあなたのモーメンツ、繋げればドラマになりそう。詳しく聞かせて。もしかしたら今夜、霊感が爆発して書き始められるかも」
酒のペンネームは「浮光入酒」。典型的な社長小説を書くのが大好きだった。――私、この数日であなたの小説の中に入り込んじゃったのかもしれない。
そうでなければ、こんなにありえないことは続かないはずだ。