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第01話:さよならの始まり
[氷月(ひづき)雫(しずく)の視点]
携帯電話が鳴った時、私はリビングのソファで、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「氷月雫さんですね。検査結果についてお話があります」
医師の声は、いつものように淡々としていた。でも、その奥に潜む重さを、私は敏感に感じ取っていた。
「ステージ4のすい臓がんです。治療を中止した場合、余命は一ヶ月未満と考えられます」
電話の向こうから聞こえる言葉が、まるで他人事のように響いた。
一ヶ月。
「治療はどうされますか?」
「......治療は受けません」
なぜか、迷いはなかった。
「ご家族の方にもお話を」
「夫も納得してくれています」
嘘だった。刹那(せつな)には何も話していない。話すつもりもなかった。
電話を切ると、静寂が戻ってきた。検査結果の紙を手に取り、そっと引き出しの奥にしまう。
リビングのサイドテーブルに置かれた写真立てが目に入った。結婚式の時の写真。純白のドレスを着た私と、タキシードの刹那が笑っている。
あの頃の刹那は、私だけを見つめていた。
幼なじみから恋人になって、二人で必死に働いて、やっと手に入れたこの家。刹那の会社が軌道に乗るまで、私も夜遅くまで働いた。お互いを支え合って、愛し合って。
「雫が俺の全てだ」
そう言ってくれた刹那は、もういない。
結婚七年目。秘書の綾辻(あやつじ)玲奈(れいな)との不倫が始まってから、刹那の目に私はもう映らなくなった。
数日前の結婚記念日。私が用意した夕食も、プレゼントも、刹那は見向きもしなかった。
「雫、俺には子どもが必要なんだ」
その言葉に、私は思わず手にしていた花瓶を床に叩きつけてしまった。白い陶器の破片が、リビングに散らばった。
玄関のドアが開く音がした。
一週間ぶりの帰宅。刹那のワイシャツには、薄いピンクの口紅がついていた。
「拗ねるのは終わったか?」
冷たい声だった。昔の優しさなんて、もうどこにもない。
「おかえりなさい」
私はそう言うのが精一杯だった。
「まだ片付けてないのか」
刹那は床に残る花瓶の破片を見下ろした。私は慌てて破片を拾い集めようとして、鋭い欠けらで手を切ってしまった。
「痛っ」
血が滲む。
「新手の演技?自傷?」
刹那の声に嘲笑が混じっていた。
「そんなんじゃない」
「雫、いい加減にしろ。あいつとはただの遊びだ」
あいつ。玲奈のことを、そう呼んだ。
「妊娠して子どもが生まれたら、向こうは海外にでも送るつもりだ」
まるで物でも処分するような口調だった。でも、玲奈に向ける刹那の表情は、私に向けるものとは全く違っていた。
刹那の携帯が鳴った。
「玲奈?」
声のトーンが一変した。優しくて、温かくて。
「うん、今から行く」
私に向けたことのない声だった。
刹那はコートを羽織り、玄関に向かった。
「待って」
背中に向かって、私は言った。
「離婚しましょう」
刹那は振り返らなかった。
「もし、ほんとうにもうすぐ死ぬとしたら?」
小さく呟いた私の声は、ドアが閉まる音にかき消された。
携帯を手に取り、刹那の番号を押す。
『おかけになった電話番号は、お客様のご都合により......』
着信拒否。
私はかすかに笑って、壁のカレンダーを見上げた。
「.....今日が、刹那と『さよなら』する、最初の日なんだね」