秋の訪れとともに、都の政治情勢は急速に不穏な空気を帯び始めていた。朝霧の立ち込める庭で、蓮麻呂は小菊と共に密かな修行を行っていた。
「若様、こちらの術式はいかがでしょうか?」
小菊が差し出したのは、彼女なりに改良を加えた式神用の紙だった。祖母から聞いた知識を基に、従来よりも霊力を通しやすい折り方を考案したのだという。
「素晴らしい工夫だね」
蓮麻呂は感心しながら紙を受け取った。確かに霊力の流れが改善されている。小菊の感性と知識は、予想以上に価値があるものだった。
「式神召喚・改良型」
蓮麻呂の術式と小菊の改良紙が組み合わさると、これまで以上に精巧な式神が現れた。まるで本当に生きているような滑らかな動きで、庭の上空を舞い踊る。
「成功ですね」
小菊は嬉しそうに手を叩いた。
「私もお役に立てて光栄です」
「君の協力があってこそだよ。一人では、ここまで改良できなかった」
二人の研究が軌道に乗り始めた矢先、屋敷に慌ただしい足音が響いた。
「若様!」
駆け寄ってきたのは、下男の一人だった。その表情には明らかな動揺が見て取れる。
「どうした?」
「お父様がお呼びです。至急、書斎までお越しくださいとのことです」
蓮麻呂と小菊は顔を見合わせた。道長が朝早くから緊急に呼び出すとは、よほどの事態に違いない。
書斎に向かう途中、蓮麻呂は廊下で蓮太郎と蓮次郎の姿を見かけた。二人とも険しい表情を浮かべている。
「父上に呼ばれたのか?」
蓮太郎が振り向いた。
「はい。何かあったのでしょうか?」
「橘家の件だ」
蓮次郎が低い声で答えた。
「どうやら事態が深刻化している」
三兄弟が書斎に集まると、道長は深刻な表情で彼らを迎えた。机の上には、複数の書状が開かれている。
「座れ」
道長の声には、普段にない緊張感があった。息子たちが席に着くと、彼は重々しく口を開いた。
「橘家が動き出した。陰陽寮の人事に直接介入しようとしている」
蓮太郎が眉をひそめた。
「それは……越権行為ではありませんか?」
「通常ならばそうだ。しかし、彼らは巧妙に根回しを行っている」
道長は書状の一つを手に取った。
「他の家からも同調者を集め、『陰陽寮改革』という名目で正当化しようとしている」
「改革の内容は?」
蓮次郎が尋ねた。
「五大家の権限強化。特に、陰陽師の査定と昇進に関する決定権を、陰陽寮から五大家に移そうとしている」
蓮麻呂は事態の深刻さを理解した。それは陰陽寮の独立性を奪い、政治的な道具にしようとする企みだった。
「我々藤原家は、どのような立場を取るのですか?」
道長は蓮麻呂を見た。普段なら政治的な話題に口を挟むことのない三男からの質問に、少し驚いたような表情を見せる。
「慎重に検討している。橘家の提案に乗れば短期的な利益はあるが、長期的には陰陽道そのものを堕落させる危険がある」
「では、反対されるのですね?」
蓮太郎が確認した。
「そう簡単ではない」
道長は溜息をついた。
「橘家は既に源家と平家を味方につけている。我々が単独で反対しても、多勢に無勢だ」
蓮麻呂の頭の中で、政治的な計算が高速で回転していた。五大家のうち三家が橘家につけば、残るは藤原家と菅原家だけ。しかし、菅原家は元々政治的影響力が小さい。
「菅原家は?」
「道真殿は反対の立場だが……」
道長は苦い表情を浮かべた。
「彼らの発言力では状況を変えることは難しい」
「つまり、我々が孤立する可能性があるということですか?」
蓮次郎の声に不安が滲んだ。
「その通りだ。しかし、それ以上に問題なのは……」
道長は声を潜めた。
「橘家が我々に対して、何らかの工作を仕掛けてくる可能性があることだ」
蓮麻呂の背筋に冷たいものが走った。政治的な対立が、直接的な攻撃に発展する可能性を示唆している。
「工作とは?」
「様々だ。政治的な孤立、経済的な圧迫、そして……」
道長は躊躇ってから続けた。
「個人への直接的な攻撃も考えられる」
書斎に重い沈黙が落ちた。政治の世界の恐ろしさを、息子たちは改めて実感していた。
「我々はどうすれば?」
蓮太郎が尋ねた。
「当分の間、慎重に行動する。不用意な発言や行動は避け、橘家に口実を与えないよう注意深く振る舞う」
道長の視線が蓮麻呂に向けられた。
「特にお前は、政治的な価値が低い分、標的にされる可能性もある。日頃の行いに十分注意しろ」
「はい、父上」
蓮麻呂は表面的には従順に答えたが、内心では複雑な感情が渦巻いていた。
(政治的価値が低い……確かにそうかもしれない。でも、それは実力を隠しているからだ)
もし本当の実力を明かせば、政治的な価値も変わるはず。しかし、今それを行うのは危険すぎる。
書斎を出た後、三兄弟は廊下で立ち話をした。
「嫌な局面だな」
蓮太郎が溜息をついた。
「これまで以上に結束が必要ですね」
蓮次郎が付け加えた。しかし、その視線が蓮麻呂に向けられた時、微かな計算的な光が宿っているのを蓮麻呂は見逃さなかった。
(蓮次郎兄上は、この状況を何かに利用しようとしているのか?)
その日の夕方、蓮麻呂は小菊と共に今後の対策を考えていた。
「政治的な混乱が激しくなりそうです」
「若様もお気をつけください」
小菊は心配そうに言った。
「私にできることがあれば、何でもします」
「ありがとう、小菊。君の存在が、今の僕には何より心強い」
しかし、蓮麻呂の心の奥では、不吉な予感が膨らんでいた。橘家の野望、家族内の微妙な関係、そして自分の隠された実力――これら全てが複雑に絡み合って、大きな嵐を呼び起こそうとしている。
窓の外では、秋風が庭の木々を激しく揺らしていた。まるで、これから訪れる嵐の前触れのように。