第2話:決別の微笑み
彩花の両親が響の両親を助けて命を落としたのは、もう十年以上も前のことだった。
あの日、響の両親が乗った車が崖から転落しそうになった時、彩花の両親は迷わず飛び出していった。結果、響の両親は助かったが、彩花の両親は車と一緒に谷底へと消えた。
響の祖父は、恩人の娘である彩花を神楽坂(かぐらざか)家に引き取った。そして彼女を守るため、響との婚約を決めたのだ。
「雪咲彩花は、嫉妬深くて彼氏命の地雷女だ」
周囲の人間はそう陰口を叩いていた。響を繋ぎ止めるために必死になる彩花の姿を見て、皆がそう評価していた。
でも、それも今日で終わり。
「響」
彩花は静かに呼びかけた。響が振り返る。いつものように泣き騒ぐ彩花を予想していたのだろう。しかし——
「わかってる」
彩花の声は小さく、でも確かだった。響の眉が僅かに寄る。いつもなら「そんなつもりじゃなかった」「信じて」と縋りついてくるはずなのに。
「彩花?」
響の声に困惑が滲む。望んでいたはずの素直な態度なのに、なぜか胸騒ぎがした。
彩花は淡く微笑んだ。
「もう決めたの」
その微笑みには、諦めと解放が混在していた。響との関係に見切りをつけ、新たな人生を始めるという静かな決意が込められていた。
響は言葉を失った。この彩花は、知っている彩花ではなかった。
「彩花さんを運びます」
護衛隊員が彩花に近づいた時、異変が起きた。
「うわっ!」
隊員が彩花の足を持ち上げようとして、思わず手を離した。彩花の足——膝から下が、凍傷で黒く変色していた。壊死が始まっている。
響の顔が青ざめた。
「治せるのか!?」
響が医師に叫んだ。一時的な罪悪感が胸を突いた。
彩花の記憶が蘇る。オオカミから逃げる中で雪に足を取られ、鋭い枝が足を貫いた瞬間。大量の出血。意識を失いそうになりながらも、響が迎えに来てくれると信じて耐え続けた七日間。
響が彩花に手を伸ばそうとした、その時だった。
「うっ……」
咎音が苦しそうな声を上げた。
響の手が止まる。視線が咎音に向く。
「咎音!」
響は即座に彩花から関心を逸らし、咎音を抱きかかえた。優しく背中を撫でながら、心配そうに覗き込む。
「大丈夫か?無理しなくていいから」
咎音は響の胸に顔を埋めながら、彩花を一瞥した。その瞳に浮かんだのは、勝利の色だった。
「ヘリで病院に向かいます」
医師が告げる。響は咎音を抱えたまま立ち上がった。
「彩花は?」
護衛隊員が尋ねる。
「後で迎えを寄こす」
響の答えは冷たかった。
彼は一度もこちらを振り返らず、迷うことなく咎音を抱えたまま、ヘリに乗り込んでいった。その勢いに弾かれるように、彩花の身体がふらりと揺れ、バランスを崩して地面に膝をついた。
雪の残る地面に手をついた時、手のひらに鋭い痛みが走った。石で切れたのだろう。血が雪を赤く染めていく。
ヘリコプターの爆音が遠ざかっていく。
彩花は一人、雪山に取り残された。