篠原青斗は灯りの下に立ち、口元に笑みを浮かべていた。
その笑みは優しげで、完璧な顔立ちはまるで人を安心させるようだった。
けれど、美咲はその笑みを見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「私に売らないなら……いったい誰に売るつもりなんだ?」
問いかけに、美咲は小さく顔を上げた。小ぶりで整った顎を少し突き出した。
彼女もまた笑みを浮かべる。
「誰に売るかはともかく――あなたには売らないわ」
その一言で、男の笑顔は一瞬にして翳りを帯びた。切れ長の瞳に、氷のような光が淡くきらめく。
美咲はまっすぐにその顔を見返した。
離婚してから半年、彼はますます洗練され、気高く、完璧な男へと変わっていた。きっと自分が生活のために必死でもがいていた間、彼は順風満帆で笑っていたのだろう。
「篠原青斗、ひとつ聞きたいことがあるの」
篠原青斗は素っ気ない口調で「……言ってみろ」と返した。
「タダで抱ける女を拒んでおいて――今さら金を払って買おうとするなんて。頭、おかしいんじゃない?」
静かに言い放つと、篠原青斗の表情が一瞬で暗転する。美咲はその顔を見て満足げに唇を弧にし、ドアを開け放って部屋を出ていった。
冬の夜の桐城は、骨の髄まで凍えさせるほど寒い。
暖かなホテルを飛び出した美咲は、刺すような風に身を縮めながら、薄いコートをかき寄せて夜更けの通りを歩く。
街の灯りはほとんど消え、煌々と光を放つのは二十四時間営業の店だけだった。
――また失敗した。
明日、花子紬が口座に五十万が入っていないと知ったら、どんな顔をするだろう。
思わず、さきほどのスイートルームの光景が脳裏によみがえる。篠原青斗が灯りの下で浮かべた、あの嘲笑のような笑み。
そう、結婚して三年――彼は一度も彼女に触れなかった。
彼は一度も彼女に触れなかった。
離婚してからわざわざ百万を払って「初夜」を買おうとするなんて。それが侮辱や報復でなくて何だろう。
寒さのせいか、それとも怒りのせいか、身体が小刻みに震える。タクシー代すら惜しくて、腕を抱えながら小走りで帰路を急いだ。
半時間ほど走り続けてようやくたどり着いた、寒さで体がこちこちになった。
彼女の住まいは地下室で、ベッド一つ置けば身動きもできないほど狭く、風呂もない。洗うためには銭湯へ行くしかない
広い部屋を借りる金などない。そのわずかな金は、父や弟の治療費、妹の学費に回さなければならない。
守らなければならない人がいる。裏切った分、必死に償わなければならない。
だから、倒れるわけにはいかない。
父が目を覚ますその日まで。弟が腎臓の移植を終えるその日まで。妹が大学を卒業するその日まで。――絶対に、生き抜いてみせる。
ベッドに横たわると、疲労がどっと押し寄せる。瞼を閉じても、脳裏には篠原青斗の顔が浮かび、胸の奥が鋭く痛んだ。ーー煙草が欲しい。
けれど、もう持っていない。
彼を追いかけていたあの頃、嫌われたくなくて禁煙したのだ。
彼はタバコを吸う女が好きじゃないと思って。
振り返れば、そんなくだらない理由で必死になっていた自分が滑稽で仕方ない。思い出すたびに吐き気すら覚える。
美咲は心臓を押さえ、身体を小さく丸めた。
もう長い間、胸が痛むことなんてなかった。
彼のこと、もう忘れたと思っていた。
それなのに、ただ一度顔を合わせただけで、すべての記憶が蘇ってくる。
離婚届を突きつけられたあの日。「手術費が欲しければ署名しろ」と冷たく言い放たれた声。
父の命を乞い、彼の前で土下座し、涙を流した自分。
そして、容赦なく突きつけられた「無一文での離婚契約」。
半年たった今でも、あの日の胸の痛みと、震えてペンを握れなかった指先の感覚が鮮明に甦る。
――ああ、これがきっと「憎しみ」という感情なんだ。ーーと、美咲は心の中で呟いた。