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章 2: オリジン

 私が十歳になった年の冬。

 その時は、あまりにも突然訪れた。

「エリアーナ様」

 廊下ですれ違った侍女が、私に囁く。

「塔の鳥は、もうお役御免ですって」

 私の足が、止まる。

「……何、どういうこと?」

「ええ。異国の商人に、高く売れるそうですわ」

 別の侍女が、意地悪く笑みを浮かべて言う。

「あら、私は処分なさると聞きましたけれど」

 処分。

 その言葉が、胸に突き刺さる。

 父が、ラーラに飽きたのだ。

 珍しい鳥として飼い、眺め、そして用済みになれば捨てる。

 それは、彼にとっては当然の権利であり、何の躊躇もない日常だった。

 どちらにせよ、結果は同じ。

 ラーラが、この屋敷からいなくなる。

 私の、唯一の拠り所が、また奪われる。

 その事実を悟った時、私の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。

(また、何もできないまま失ってやるもんか)

 母を失った時の、あのどうしようもない絶望と無力感。

 もう、あんな思いはしたくなかった。

 理屈ではない。

 ただ純粋に、「失いたくない」という、子供の魂の叫び。

 あの時は、母の手を握りしめることしかできなかった。

 今なら――今なら、何かできるかもしれない。

 その想いが、私を突き動かした。

 その夜、私は父の書斎へ忍び込んだ。

 父の机の引き出しには、離れの塔の鍵があった。

 それを握りしめ、私は雪が降りしきる庭園へと駆け出す。

 世界は、白い雪に覆われていた。

 音が全て吸い込まれたような、静寂の夜。

 私の足跡だけが、雪の上に残る。

 でも、それもすぐに消えていく。

 塔の扉を開けると、ラーラは窓辺に立っていた。

「エリアーナ……?」

 彼女は驚いて振り返る。

「ラーラ! 一緒に、逃げましょう!」

 私は、彼女の手を掴んだ。

「え……?」

「父が、あなたを処分しようとしているの! だから、今すぐ――」

 ラーラの瞳が、大きく見開かれる。

「エリアーナ、だめよ。あなたまで罰せられる」

「構わない!」

 私は、彼女の手を強く引いた。

「私は、あなたを失いたくないの!」

 ラーラは、何かを言おうとして――そして、口を閉ざした。

「……わかったわ」

 ラーラは、小さく頷く。

 彼女は、微笑んでくれた。

 けれど、その笑みには、何故かどうしようもない諦念が滲んでいた。

「ありがとう、エリアーナ」

 それでも、私たちは、雪の中を駆けた。

 冷たい風が、頬を刺す。

 吐く息が、白く凍る。

 屋敷の裏手、庭園を囲む高い塀。 

 あそこを越えれば――。

 あと少し。

 あと少しで――。

「――ッ、ぁああああっ!」

 突然、ラーラの体が、見えない壁に叩きつけられたかのように、激しく後ろへ引き戻された。

「ラーラ!?」

 彼女は雪の上に倒れ込み、激しく咳き込む。

 その首輪が、赤黒い光を発している。

「ごめんなさい……エリアーナ……この首輪がある限り……私は、この敷地から……一歩も……」

 ラーラの声が、苦痛に歪む。

 首輪が、まるで意志を持った蛇のように、彼女の首を締め上げる。

 皮膚が裂け、血が滲む。

「や、やめて……!」

 私は、ラーラの体にすがりつく。

 けれど、首輪は容赦なく彼女を苦しめ続ける。

 この首輪さえなければ。

(この醜い鉄の枷さえなければ!)

 その想いが、私の中で、破壊的な衝動へと変わった。

 私は、雪に倒れるラーラの首元に手を伸ばした。

 呪いを解く、などという理屈ではない。

 ただ、この人を苦しめるものを、壊したい。

 怒りを煮詰めたような、ぐちゃぐちゃの感情だけが、私の中にあった。

「エリアーナ、だめ……危険よ……」

 ラーラが、弱々しく私の手を止めようとする。

 でも、私は聞かなかった。

 私は、冷たい鉄の首輪を、両手で掴んだ。

 そして、渾身の力で、それを引きちぎろうとした。

「――外れて!」

 叫んだ、その瞬間。

 私の内側で眠っていた、未知の力が――暴発する。

 体中から、光が溢れ出す。

 眩い、眩い、純白の光。

 吹雪の夜を、真昼に変えるほどの輝き。

 首輪が、悲鳴を上げた。

 金属が軋み、亀裂が走る。

「ああああああああっ!」

 私の叫び声と同時に――首輪が、粉々に砕け散った。

 破片が、雪の上に散らばる。

「……ラーラ?」

 私は、彼女の名を呼ぶ。

 彼女は、雪の上で、静かに目を閉じていた。

「ラーラ! しっかりして!」

 私は、彼女の体を揺さぶる。

 けれど、彼女は答えない。

 そして――世界が、歪んだ。

 右目の視界から、色が消えていく。

 赤が、消える。

 青が、消える。

 緑が、消える。

 全てが、白と黒に塗り替えられていく。

「え……?」

 私は、自分の手を見る。

 左目には、雪に染まった赤い血が見える。 

 でも、右目には、ただ白と黒の濃淡しか映らない。

「なに……これ……」

 視界が、ぐらりと揺れる。

 体が、熱い。

 全身を焼き尽くすような、激しい熱。

「ラー……ラ……」

 私は、彼女の名を呼ぼうとして――。

 意識が、深い闇に沈んだ。

「……ここは?」

 目を覚ますと、私は自室のベッドの上にいた。

 窓の外は、眩しい陽光。

 雪は、もう溶けている。

「エリアーナ様! お目覚めになられましたか!」

 侍女が、驚いて駆け寄ってくる。

「……どのくらい?」

「一週間です。高熱で、ずっと……」

 一週間。

 私は、ゆっくりと体を起こす。

 そして――鏡を見た。

 映っているのは、見慣れた私の顔。 

 けれど、何かが違う。

 右目。

 右目の世界が、色を失っている。

 左目には、部屋の赤いカーテンが見える。 

 でも、右目には、ただ灰色の布が揺れているだけ。

「色が……ない」

 私は、自分の右目を、恐る恐る触れる。

 痛みはない。

 ただ、色だけが、永遠に消えてしまった。

「ラーラは?」

 私は、侍女に尋ねる。

 侍女は、顔を伏せた。

「……塔には、誰もおりません」

「どこへ行ったの?」

「それは……私どもには」

 私は、ベッドから降り、部屋を飛び出した。

 庭を駆け抜け、薔薇のアーチを抜けて――塔へ。

 扉を開ける。

 薄暗い部屋の中は、もぬけの殻だった。

 窓辺に、一枚の白い羽根だけが残されていた。

 私は、それを拾い上げる。

 ラーラがくれた、翼の羽根。

「……ごめんなさい」

 涙が、頬を伝う。

「ごめんなさい、ラーラ」

 私が彼女を自由にしようとした、その行為こそが。

 彼女の命を奪う、引き金になったのだと。

 父が、解放された彼女を、決して許すはずがない。

 私が眠っている間に、全ては終わってしまっていた。

 私は、その羽根を胸に抱きしめた。

 そして、塔の窓から、遠い空を見上げる。

 右目に映る空は、ただの白い靄。

 でも、左目には、青い空が広がっている。

 残ったのは、歪な二重の世界。

 これが、私が支払った代償。

 そして――。

 右目の視界の端に、何かが見えた。

 黒い、炎のようなもの。

 それは、庭を歩く奴隷の体から、揺らめくように立ち上っていた。

「これは……?」

 私は、目を凝らす。

 侍女たちからも、その悍ましい炎は、立ち上っている。

「呪い……?」

 なぜか、私にはそれがわかった。

 色を失った右目は、代わりに、この世界に存在する呪いを視認できるようになったのだと。

 私は、自分の手を見る。

 何も映らない。

 私には、呪いはかかっていない。

 でも、この世界の誰もが――呪いに縛られている。

「そう……これが、私の力」

 私は、白い羽根を握りしめた。

 ラーラ。

 あなたを救えなかった、この力。

 でも、いつか――。

「私は……わたくしは、必ず……」

 いつか、この力で、この世界を縛る全ての鎖を砕いてみせる。

 それが、私にできる、唯一の贖罪。

「この狂った世界をぶち壊す」


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