「やめなさい」
肉を打つ乾いた音が、石造りの部屋に響く。
革鞭が空中で止まり、調教師の腕がゼンマイ仕掛けの玩具のように固まる。
その視線の先――血まみれの獣人が、床に膝をついてこちらを見上げていた。
「あんた誰?」
「テメェ! エリアーナ様に向かってなんて口を!」
再び革鞭を振るおうとした調教師を、手で制した。
血濡れの獣人は、ただ無表情に私を見る。
その無数の傷跡は、ただ無謀な抵抗を繰り返してきた愚か者の証。
だが、その瞳は――。
時は、少しだけ遡る。
◇
初夏の陽光が、磨き上げられた騎士たちの板金鎧に反射して、私の目を焼く。
左目に映る光は、眩い金色。
だが右目に映るそれは、ただの白い線の塊でしかない。
私の右目は、あれからずっと色を失っている。
赤も、青も、緑も——この目には、全てがモノクロームの濃淡でしか映らない。
両目を開けば、世界は歪んだ二重映しになる。
左半分は色彩に溢れ、右半分は白と黒に塗り潰された、ちぐはぐな現実。
これが、私が支払った代償。
かつて、禁忌に手を染めた少女が失った、取り返しのつかないもの。
(でも、まだ左目は残っている。まだ、世界をちゃんと見られる)
自分にそう言い聞かせて、私は扇子で左目側の視界を遮るように構えた。
色を失った世界を見るたび、あの日の記憶が蘇る。
震える手で触れた、温かかった何か。
そして、光が消えていく感覚——。
「オラッ! 鳴けよ犬っころが!」
「グゥッ」
不快な声が、私の意識を目の前の現実へ引き戻す。
我がクライネルト公爵領が、王都最大の奴隷商ギルドから新たに買い付けた獣人奴隷たち。
彼らは、公爵家の練兵場で、拘束具を付けられたまま横一列に並べられていた。
練兵場は、騎士の罵倒と、奴隷の苦悶の声で満ちている。
(今日は、やけに右目が痛むわね)
奴隷たちに渦巻く禍々しい黒炎の邪気が、私の右目を疼かせる。
色彩を失った右目は、代わりに不可思議なものを目に映す。
呪い。
この世界の摩訶不思議な技術によって、対象の精神と肉体を縛る邪法。
本来は不可視であるその術の輪郭を、黒い炎のような形で網膜に焼き付ける。
「おい、もっとしっかり痛めつけんか!」
「は、はい! 承知しました、バンデル様!」
奴隷たちが騎士によって虐げられる姿をみて、日よけの天幕の下、玉座まがいの椅子に腰かけた父、バンデル・フォン・クライネルト公爵が興奮気味に息を漏らす。
その息遣いが、隣に立つ私の耳を嫌に刺激した。
目の前で繰り広げられているのは、『検分』と名付けられた、一方的な暴力の儀式だ。
その奴隷たちの商品価値を確かめ、同時に絶対的な服従を刻み込むための、最初の躾。
膝を折れば気骨がないと値が下がり、悲鳴を上げれば躾がなっていないと嘲笑われる。
ただ鋼のように固く、石のように無感情でいることだけが、彼ら奴隷に許された唯一の処世術。
そして、商品としての価値を維持する術だ。
(何もかもが、腐っている)
意味のない声が、頭蓋の内側で空虚に響く。
この世界にエリアーナ・フォン・クライネルトとして生を受けて十六年。
まだ平凡な日本の女子高生だった頃の私が、この地獄を倫理的に、生理的に、全力で拒絶している。
人権、尊厳、自由――平等。
そんな、当たり前だった言葉たちが、この異世界の地では通用しない。
(こんなことは、絶対にあってはならない)
そう思うのに、私の心は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。
恐ろしい。
何より、この光景に心が揺れない、今の自分が。
胃の奥が冷えていく。
(ああ、また『私』がすり減っていく)
涙は一滴も流れず、美しい刺繍が施された純白のドレスの袖を握りしめる指先に、力はこもらない。
何不自由ない公爵家という名の金の鳥かご。
その中で、私はとっくに心を殺す術を覚えてしまっていた。
「チンタラ歩いてんじゃねぇ! さっさと来い!」
「うるせぇなぁ。そんなデカい声じゃなくても聴こえるよ」
「なんだと貴様ァ!」
また一人、檻から引きずり出された奴隷が、執行役の騎士の前に立たされる。
狼の耳と、だらりと垂れた尾を持つ、まだ若い男。
煤けた癖のある灰色の髪の間からは、ぴくりと動く狼の耳が覗いている。
若いながら、その体躯は他の者たちよりも1回り大きい。
父が、隣に立つ私へこともなげに囁く。
その声は、ワインの銘柄を語る時と同じ、穏やかな響きを持っていた。
「見なさい、エリアーナ。あれは反抗的で使い物にならぬと、ギルドが持て余していた屑だそうだ。だが、ああいう獣ほど、徹底的に躾ければ屈強な駒になる。恐怖を刻み込めば、その強靭な肉体は我らの忠実な盾となるのだ」
私は、公爵令嬢としての笑みを貼り付け、レースの扇子で口元を隠し、小さく頷く。
「素晴らしいお考えですわ、お父様」
内心で、父の言葉を反芻する。
『駒』
『盾』
そうだ、彼らは人間ではない。
この奴隷国家では、彼ら獣人は言葉を話す家畜であり、心を弄ぶ玩具でしかない。
それが、ヘルドリア王国の絶対的な秩序であり、正義なのだ。
革鞭が、再び振り上げられる。
風を切る音が、先ほどよりも鋭い。
今日、何度目になるかもわからない、乾いた音が響く。
しかし、その男は倒れなかった。
鞭で打たれようが、罵倒されようが、ただ面倒くさそうに佇んでいる。
深山の湖の底のように、静かで、そしてどこまでも昏い、黒曜石の瞳。
そこに宿るのは、ただの獣が持つ獰猛さでも、ただの奴隷が持つ絶望でもない。
退屈な時間が終わるのを待つだけの達観と、理知的な光があった。
その獣人の頑強さに、周囲の騎士たちが、わずかにどよめく。
私もいつの間にか彼の様子が気になり、無心で眺めていた。
その時だ。
彼の2つの瞳が、不意に、私を射抜いた。
瞬間、私の心臓が大きく跳ねる。
左目に映る彼の瞳は、静謐な闇を宿す、深い、深い黒。
そして、右目に映る彼の瞳は――色を失った世界の中で、まるで光を放っているかのように際立って見えた。
(これは、いったい……)
モノクロの視界の中で、唯一、存在感を主張する漆黒。
それは、色を持たないからこそ見える、本質の輝き。
公爵令嬢である私へ集まる視線は、常に羨望か、嫉妬か、媚びへつらいか。
けれど、彼の瞳は全く異なる。
恐怖でも、憎しみでも、諦めでもない。
高みからチェス盤を眺めるプレイヤーのような、冷徹で、分析的な光。
殴りつけてくる騎士を、それを見て満足げな父を。
そして、令嬢の仮面を貼り付けた私を――まるで観測者のように、ただ冷ややかに見ている。
(なんだ、あの目は)
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
気づけば、私は扇子を握る手に力を込めていた。
儀式が終わり、奴隷たちが家畜のようにそれぞれの檻へと戻されていく。
父は今日の成果にご満悦の様子で、騎士たちを労っている。
誰もが、先ほどの獣人のことなど忘れ去っていた。
だが、私の頭からは、あの奴隷の顔が離れない。
(彼と、話をしてみたい)
◇
夕食の席は、いつも通りの静寂に包まれていた。
長いテーブルの先頭に座る父は、上機嫌でワインを口に運んでいる。
昼間の検分が、彼の支配欲を十分に満たしたのだろう。
壁にかけられた歴代クライネルト公爵の肖像画が、愉快気な瞳で私たちを見下ろしている。
まるで、私がこれから始めようとしている、ささやかな挑戦を歓迎するように。
私は、スープを口に運びながら、話を切り出すタイミングを計っていた。
指先がわずかに冷えるのは、緊張か、あるいは銀製のスプーンに熱を奪われているだけか。
私の顔には、ただ父を敬愛する娘の穏やかな笑みが浮かんでいるはずだ。
十六年間、演じ続けてきたこの役は、もはや私の中に溶け、心象に歪なマーブル模様を作り出している。
「お父様」
私が声をかけると、父は驚いて顔を上げる。
この食卓で、私から彼に話題を振ることなど、滅多にないからだ。
「どうした、エリアーナ」
「今日の検分のことで、1つお願いがございますの」
父の眉が、面白そうに片方だけ上がる。
「ほう? 珍しい。言ってみなさい」
その言葉に、私は無邪気で、最も父が喜びそうな令嬢の顔を作って微笑んだ。
「昼間、お父様が『屈強な駒になる』とおっしゃっていた、狼の獣人がおりましたでしょう?」
「ああ、あの屑か。あれがどうかしたのかね?」
父の鋭い視線が、穏やかな食卓に緊張をもたらす。
私は、肩に少しばかり力がこもるのを感じながら、できる限り自然な風を装った。
「はい。わたくし、お父様のお言葉に、とても感銘を受けましたの。どのような獣も、クライネルト家の威光の前では頭を垂れるのだと。つきましては、わたくしの手で、あの獣を躾けさせてはいただけないでしょうか?」
「お前が?」
父は心底意外そうな顔で、私を見返した。
「本気か? あれは暴れるかもしれんのだ。お前には……」
「いいえ、お父様。わたくしは、お父様の娘ですもの。獣の一匹や二匹、恐れるはずがございません。それに、簡単に屈しない獣を支配し、忠実な僕とした時、それこそがクライネルト家の令嬢として、わたくしの権威の最初の証明となりましょう」
私は、父が最も好む言葉を選んで、畳みかけた。
『支配』
『忠誠』
『権威』
それらは、この国の貴族たちにとって、魂そのものだ。
父は、しばらく黙って私を見つめていた。
その査定するような視線に、私は少しも怯むことなく、ただ純粋な尊敬と好奇心に満ちた瞳を返す。
それらが全て虚飾であると、実の父ですら見抜けはすまい。
(いいえ、全てが虚飾だなんて嘘。もう、私の中にも、醜いクライネルトの魂が宿りつつある)
やがて、父の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
「面白い、よかろう。お前の言うことにも一理ある。お前に流れるクライネルトの血が、ただ美しいだけではないということを証明してみせろ」
「ありがとうございます、お父様!」
「ただし、護衛は付ける。万が一のことがあってはならんからな。せいぜい、あの獣に己の立場というものを、骨の髄まで教えてやるが良い」
「はい! お任せください!」
私は、心の底から嬉しそうな声を上げ、優雅に淑女の礼をしてみせた。
父は、従順で優秀な娘の成長を喜ぶように、満足げに頷いてグラスを傾ける。
私はそれを確認して顔を伏せると、張り付けた表情を消す。
テーブルの下、見えない場所で強く握りしめたレースの扇子が、ミシリと小さな悲鳴を上げた――。