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章 3: 黒曜石の輝き

「やめなさい」

 肉を打つ乾いた音が、石造りの部屋に響く。

 革鞭が空中で止まり、調教師の腕がゼンマイ仕掛けの玩具のように固まる。

 その視線の先――血まみれの獣人が、床に膝をついてこちらを見上げていた。

「あんた誰?」

「テメェ! エリアーナ様に向かってなんて口を!」

 再び革鞭を振るおうとした調教師を、手で制した。

 血濡れの獣人は、ただ無表情に私を見る。

 その無数の傷跡は、ただ無謀な抵抗を繰り返してきた愚か者の証。

 だが、その瞳は――。

 時は、少しだけ遡る。

 ◇

 初夏の陽光が、磨き上げられた騎士たちの板金鎧プレートアーマーに反射して、私の目を焼く。

 左目に映る光は、眩い金色。

 だが右目に映るそれは、ただの白い線の塊でしかない。

 私の右目は、あれからずっと色を失っている。

 赤も、青も、緑も——この目には、全てがモノクロームの濃淡でしか映らない。

 両目を開けば、世界は歪んだ二重映しになる。

 左半分は色彩に溢れ、右半分は白と黒に塗り潰された、ちぐはぐな現実。

 これが、私が支払った代償。

 かつて、禁忌に手を染めた少女が失った、取り返しのつかないもの。

(でも、まだ左目は残っている。まだ、世界をちゃんと見られる)

 自分にそう言い聞かせて、私は扇子で左目側の視界を遮るように構えた。

 色を失った世界を見るたび、あの日の記憶が蘇る。

 震える手で触れた、温かかった何か。

 そして、光が消えていく感覚——。

「オラッ! 鳴けよ犬っころが!」

「グゥッ」

 不快な声が、私の意識を目の前の現実へ引き戻す。

 我がクライネルト公爵領が、王都最大の奴隷商ギルドから新たに買い付けた獣人奴隷たち。

 彼らは、公爵家の練兵場で、拘束具を付けられたまま横一列に並べられていた。

 練兵場は、騎士の罵倒と、奴隷の苦悶の声で満ちている。

(今日は、やけに右目が痛むわね)

 奴隷たちに渦巻く禍々しい黒炎の邪気が、私の右目を疼かせる。

 色彩を失った右目は、代わりに不可思議なものを目に映す。

 呪い。

 この世界の摩訶不思議な技術によって、対象の精神と肉体を縛る邪法。

 本来は不可視であるその術の輪郭を、黒い炎のような形で網膜に焼き付ける。

「おい、もっとしっかり痛めつけんか!」

「は、はい! 承知しました、バンデル様!」

 奴隷たちが騎士によって虐げられる姿をみて、日よけの天幕の下、玉座まがいの椅子に腰かけた父、バンデル・フォン・クライネルト公爵が興奮気味に息を漏らす。

 その息遣いが、隣に立つ私の耳を嫌に刺激した。

 目の前で繰り広げられているのは、『検分』と名付けられた、一方的な暴力の儀式だ。

 その奴隷たちの商品価値を確かめ、同時に絶対的な服従を刻み込むための、最初の躾。

 膝を折れば気骨がないと値が下がり、悲鳴を上げれば躾がなっていないと嘲笑われる。

 ただ鋼のように固く、石のように無感情でいることだけが、彼ら奴隷に許された唯一の処世術。

 そして、商品としての価値を維持する術だ。

(何もかもが、腐っている)

 意味のない声が、頭蓋の内側で空虚に響く。

 この世界にエリアーナ・フォン・クライネルトとして生を受けて十六年。

 まだ平凡な日本の女子高生だった頃の私が、この地獄を倫理的に、生理的に、全力で拒絶している。

 人権、尊厳、自由――平等。

 そんな、当たり前だった言葉たちが、この異世界の地では通用しない。

(こんなことは、絶対にあってはならない)

 そう思うのに、私の心は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。

 恐ろしい。

 何より、この光景に心が揺れない、今の自分が。

 胃の奥が冷えていく。

(ああ、また『私』がすり減っていく)

 涙は一滴も流れず、美しい刺繍が施された純白のドレスの袖を握りしめる指先に、力はこもらない。

 何不自由ない公爵家という名の金の鳥かご。

 その中で、私はとっくに心を殺す術を覚えてしまっていた。

「チンタラ歩いてんじゃねぇ! さっさと来い!」

「うるせぇなぁ。そんなデカい声じゃなくても聴こえるよ」

「なんだと貴様ァ!」

 また一人、檻から引きずり出された奴隷が、執行役の騎士の前に立たされる。

 狼の耳と、だらりと垂れた尾を持つ、まだ若い男。

 すすけた癖のある灰色の髪の間からは、ぴくりと動く狼の耳が覗いている。

 若いながら、その体躯は他の者たちよりも1回り大きい。

 父が、隣に立つ私へこともなげにささやく。

 その声は、ワインの銘柄を語る時と同じ、穏やかな響きを持っていた。

「見なさい、エリアーナ。あれは反抗的で使い物にならぬと、ギルドが持て余していた屑だそうだ。だが、ああいう獣ほど、徹底的に躾ければ屈強な駒になる。恐怖を刻み込めば、その強靭な肉体は我らの忠実な盾となるのだ」

 私は、公爵令嬢としての笑みを貼り付け、レースの扇子で口元を隠し、小さく頷く。

「素晴らしいお考えですわ、お父様」

 内心で、父の言葉を反芻する。

 『駒』

 『盾』

 そうだ、彼らは人間ヒューマンではない。

 この奴隷国家では、彼ら獣人セリアンは言葉を話す家畜であり、心を弄ぶ玩具でしかない。

 それが、ヘルドリア王国の絶対的な秩序であり、正義なのだ。

 革鞭が、再び振り上げられる。

 風を切る音が、先ほどよりも鋭い。

 今日、何度目になるかもわからない、乾いた音が響く。

 しかし、その男は倒れなかった。

 鞭で打たれようが、罵倒されようが、ただ面倒くさそうに佇んでいる。

 深山の湖の底のように、静かで、そしてどこまでも昏い、黒曜石の瞳。

 そこに宿るのは、ただの獣が持つ獰猛さでも、ただの奴隷が持つ絶望でもない。

 退屈な時間が終わるのを待つだけの達観と、理知的な光があった。

 その獣人の頑強さに、周囲の騎士たちが、わずかにどよめく。

 私もいつの間にか彼の様子が気になり、無心で眺めていた。

 その時だ。

 彼の2つの瞳が、不意に、私を射抜いた。

 瞬間、私の心臓が大きく跳ねる。

 左目に映る彼の瞳は、静謐せいひつな闇を宿す、深い、深い黒。

 そして、右目に映る彼の瞳は――色を失った世界の中で、まるで光を放っているかのように際立って見えた。

(これは、いったい……)

 モノクロの視界の中で、唯一、存在感を主張する漆黒。

 それは、色を持たないからこそ見える、本質の輝き。

 公爵令嬢である私へ集まる視線は、常に羨望か、嫉妬か、媚びへつらいか。

 けれど、彼の瞳は全く異なる。

 恐怖でも、憎しみでも、諦めでもない。

 高みからチェス盤を眺めるプレイヤーのような、冷徹で、分析的な光。

 殴りつけてくる騎士を、それを見て満足げな父を。

 そして、令嬢の仮面を貼り付けた私を――まるで観測者のように、ただ冷ややかに見ている。

(なんだ、あの目は)

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。

 気づけば、私は扇子を握る手に力を込めていた。

 儀式が終わり、奴隷たちが家畜のようにそれぞれの檻へと戻されていく。

 父は今日の成果にご満悦の様子で、騎士たちを労っている。

 誰もが、先ほどの獣人のことなど忘れ去っていた。

 だが、私の頭からは、あの奴隷の顔が離れない。

(彼と、話をしてみたい)

 夕食の席は、いつも通りの静寂に包まれていた。

 長いテーブルの先頭に座る父は、上機嫌でワインを口に運んでいる。

 昼間の検分が、彼の支配欲を十分に満たしたのだろう。

 壁にかけられた歴代クライネルト公爵の肖像画が、愉快気な瞳で私たちを見下ろしている。

 まるで、私がこれから始めようとしている、ささやかな挑戦を歓迎するように。

 私は、スープを口に運びながら、話を切り出すタイミングを計っていた。

 指先がわずかに冷えるのは、緊張か、あるいは銀製のスプーンに熱を奪われているだけか。

 私の顔には、ただ父を敬愛する娘の穏やかな笑みが浮かんでいるはずだ。

 十六年間、演じ続けてきたこの役は、もはや私の中に溶け、心象に歪なマーブル模様を作り出している。

「お父様」

 私が声をかけると、父は驚いて顔を上げる。

 この食卓で、私から彼に話題を振ることなど、滅多にないからだ。

「どうした、エリアーナ」

「今日の検分のことで、1つお願いがございますの」

 父の眉が、面白そうに片方だけ上がる。

「ほう? 珍しい。言ってみなさい」

 その言葉に、私は無邪気で、最も父が喜びそうな令嬢の顔を作って微笑んだ。

「昼間、お父様が『屈強な駒になる』とおっしゃっていた、狼の獣人がおりましたでしょう?」

「ああ、あの屑か。あれがどうかしたのかね?」

 父の鋭い視線が、穏やかな食卓に緊張をもたらす。

 私は、肩に少しばかり力がこもるのを感じながら、できる限り自然な風を装った。

「はい。わたくし、お父様のお言葉に、とても感銘を受けましたの。どのような獣も、クライネルト家の威光の前では頭を垂れるのだと。つきましては、わたくしの手で、あの獣を躾けさせてはいただけないでしょうか?」

「お前が?」

 父は心底意外そうな顔で、私を見返した。

「本気か? あれは暴れるかもしれんのだ。お前には……」

「いいえ、お父様。わたくしは、お父様の娘ですもの。獣の一匹や二匹、恐れるはずがございません。それに、簡単に屈しない獣を支配し、忠実なしもべとした時、それこそがクライネルト家の令嬢として、わたくしの権威の最初の証明となりましょう」

 私は、父が最も好む言葉を選んで、畳みかけた。

 『支配』

 『忠誠』

 『権威』

 それらは、この国の貴族たちにとって、魂そのものだ。

 父は、しばらく黙って私を見つめていた。

 その査定するような視線に、私は少しも怯むことなく、ただ純粋な尊敬と好奇心に満ちた瞳を返す。

 それらが全て虚飾であると、実の父ですら見抜けはすまい。

(いいえ、全てが虚飾だなんて嘘。もう、私の中にも、醜いクライネルトの魂が宿りつつある)

 やがて、父の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。

「面白い、よかろう。お前の言うことにも一理ある。お前に流れるクライネルトの血が、ただ美しいだけではないということを証明してみせろ」

「ありがとうございます、お父様!」

「ただし、護衛は付ける。万が一のことがあってはならんからな。せいぜい、あの獣に己の立場というものを、骨の髄まで教えてやるが良い」

「はい! お任せください!」

 私は、心の底から嬉しそうな声を上げ、優雅に淑女の礼をしてみせた。

 父は、従順で優秀な娘の成長を喜ぶように、満足げに頷いてグラスを傾ける。

 私はそれを確認して顔を伏せると、張り付けた表情を消す。

 テーブルの下、見えない場所で強く握りしめたレースの扇子が、ミシリと小さな悲鳴を上げた――。


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