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「岡本晶(おかもと あきら)、どうしてこんなひどいことをしたの!咲が血友病だって知ってるでしょう。ちょっとした擦り傷でも血が止まらないのに……わざと階段から突き落としたの?」
「岡本家の本当のお嬢様は咲だけよ。何一つできないあなたを引き取って、ここまで不自由なく暮らさせてあげているのに……それでも不満なの?」
「咲に何かあったら、その瞬間にでも田舎の孤児院へ叩き返すわよ!」
岡本咲(おかもと さき)は、隣の女性のけたたましい怒鳴り声に目を覚ました。長いまつげがかすかに震え、ゆっくりと目を開けると、そこには優雅で贅沢な別荘のリビングが広がっていた。
咲は若い貴婦人の腕に寄りかかっていた。貴婦人は不機嫌そうな顔で、階段の角に立つ少女を指さしながら怒鳴っていた。
咲は頭がぼんやりして、後頭部や体のあちこちがじんと痛み、いま自分に何が起きているのかすぐには理解できなかった。
突然、後頭部にひやりとした感触が走り、かすかな痛みがにじんだ。
彼女は思わず手を伸ばし、そこに触れようとした。
手を伸ばした瞬間、誰かにそっと掴まれた。背後から静かな声が落ちてくる。「触っちゃだめよ」
声は穏やかなのに、どこか冷たさが混じっていた。まるで春先のひやりとした風のようだった。
彼女を支えている貴婦人は、心配そうに咲をのぞき込み、声を和らげた。「咲、有馬先生が傷を消毒してくださっているのよ」
有馬先生は止血と包帯を終えると、医療バッグを探りながら穏やかに告げた。「岡本夫人、お嬢様はかなり出血しています。輸血が必要です。ただ……お嬢様は“黄金の血”だと伺っていますよね。ご存じの通り、この稀少な血液型は病院にもストックがありません」
普通なら頭を打った程度でここまで出血することはない。だが咲は血友病のため、ひとたび怪我をすると血が止まらず、あっという間に失血してしまうのだ。
岡本夫人はわずかに目を伏せ、家政婦に静かに命じた。「寺島哲也(てらしま てつや)を呼んできてちょうだい」
ほどなくして、家政婦は白いシャツを着た痩せた少年を連れてきた。
彼は夕暮れの光の中を歩いてきて、まるで水墨画から抜け出したようだった。塵ひとつなく、どこか清らかで品がある。
彼は咲の前に立つと静かに頭を下げた。前髪が少し目元を隠し、白い肌に端正な顔立ち。柔らかい唇をきゅっと結んだ姿は、どこか儚く、美しいほど大人しそうに見えた。
彼はそっと目を上げ、咲を一瞥した。澄んだ水面のような瞳なのに、どこか薄い霧がかかったようにも見えた。
咲はかつて心理医だったが、今の彼を前にしては説明も分析もいらなかった。その薄い霧の奥には、死んだような静けさと、底なしの孤独が横たわっている――それがはっきりと読み取れた。まるで人生の終わりに立つ老人が、一生をかけて絶望の番をしているようだった。
花の季節にいるはずの少年が、どうしてこんな印象を漂わせるのだろう。咲は一瞬、自分の見間違いなのかと思った。
咲がさらに探ろうとしたときには、少年はもう視線をそらしていた。彼は静かに立ったまま、鮮やかな赤い血が輸血器を通り、彼から咲の体へと流れていった。
そこで咲は気づいた。少年の白い手の甲には無数の針跡が刻まれていて、目を背けたくなるほど痛々しかった。
その瞬間、彼女の脳裏に――この美しい少年へ幾度も針が刺される光景が一気に押し寄せ、まるで自分のものではない記憶が洪水のように流れ込んできた。
晶、哲也、生きた血液バンク、本物と偽物の令嬢、血友病──。
しばらくしてようやく、咲は一つの事実にたどり着いた――莫大な遺産を継いだばかりの自分は、小説の世界に入り込んでしまったのだ!
彼女は最近読んだ〈本物と偽物の令嬢〉という仮面舞踏会(マスカレード)ものの小説で――“偽物の妹”として生まれ変わっていたのだ。
外面は気品あるお嬢様なのに、内心は計算高くて人を操るタイプ。巣を乗っ取り、無謀な振る舞いで評判を落とし、最後は惨めな結末を迎える――そんな悪役令嬢に。
しかも、その名前まで自分と同じだった――。
そして今、階段の角でのんびりスマホをいじっている女性こそ、咲の異父姉である晶――小説の中で、美しく奔放で“仮面を持つ”大物ヒロインだった。