今週、田中和也は出張に行くことになっていた。
秘書である高橋美羽は、当然彼に同行することになる。
なんて素敵な二人きりの機会だろう。
私は周囲の同情的な視線の中、手元の仕事を全て整理し、辞表を書いて人事部に提出した。
会社での私の現状は皆知っていたので、この辞表を見ても誰も驚かず、誰も私を責めなかった。
ただ、みんな口々に残念がるばかりだった。
「伊藤部長、本当に辞めてほしくないです」何人もの同僚が私の服を引っ張りながら言った。
「前に会社の食堂にライトミールがないって愚痴ったら、来週から導入されることになったんです。裏で部長が助けてくれたんですよね、知ってます」
「伊藤部長はとても控えめで、社長と何年も付き合っていたなんて私たち知りませんでした。次の社長夫人は部長みたいに親しみやすい方じゃないでしょうね」
……
私は微笑むだけで何も言わず、人事部の担当者だけを見つめた。「早めに上司に報告して、引継ぎの人を手配してもらえますか」
辞表を提出した午後。
スマホに予定が表示された。「今日、婚姻届提出」
私は平然とその予定を削除した。
おそらく和也もこのことは気にしていないだろう。結局、彼は今美羽と出張中なのだから。
ところが意外なことに、夜8時になって和也からメッセージが来た。
「こちらの仕事は美羽のミスで少し問題が起きて、数日余分に滞在することになった。彼女は秘書の仕事を始めたばかりでまだ慣れていないし、今日の婚姻届のことを事前に思い出させるのも忘れていた」
「ちょうどいいタイミングだ。最近君も僕と入籍したくないようだし、もう少しよく考えてみるといい」
私は軽く笑い、そのメッセージを削除した。
さらに3日後、和也はようやく出張から戻ってきた。私は新しい担当者との引継ぎを着々と進めていた。
その日の夜、駐車場で帰ろうとしたとき、突然黒いマイバッハに行く手を阻まれた。
和也が車で私を強引に止め、美羽が助手席に座り、片手を窓から出していた。彼女の指輪が眩しく光って目が痛くなるほどだった。
「伊藤詩織、辞職で私に圧力をかけるつもりか?」
和也は歯を食いしばりながら言った。
「さっさと辞表を撤回しろ。さもないと、田中興産の門を出たら二度と入れないようにしてやる」
私は彼と美羽に向かって白い目を向けた。