第3話:踏み砕かれた希望
雫が床に膝をついて紙幣を拾い集める姿を、周囲の客たちが嘲笑の目で見つめていた。
「プライドってものがないのね」綾香の声が頭上から降ってくる。「恥知らずもいいところだわ」
「見てられないな」誰かが吐き捨てるように言った。「金のためなら何でもするのか」
雫は唇を噛みしめた。屈辱が胸を焼いているが、それでも手を止めることはできない。一万円札を一枚、また一枚と拾い続ける。
二十枚。合計二十万円。
治療費六百万円には遠く及ばないが、それでも生きるために必要な金額だった。
「雫」
蓮の声が響いた。見上げると、彼の顔が怒りに歪んでいる。
「あの時手術費を出すことを拒んで、手紙を残していなくなった。今や二十万円のためにプライドも捨てたのか」
雫の手が震えた。
「君は本当に気持ち悪い!」
蓮の言葉が、雫の心を深く抉った。彼は何も知らない。母親の脅迫も、雫が聴力を失った本当の理由も。
最後の紙幣を拾い上げ、雫は立ち上がろうとした。
その時だった。
綾香の足が、さりげなく雫の足首にかかった。
雫の体がバランスを崩し、勢いよく前に倒れる。手を伸ばした先にあったのは、テーブルの上の高級ワインボトル。
ガシャン!
ラフィットの赤ワインが床に砕け散った。ガラスの破片が飛び散り、雫の手のひらを深く切り裂く。
「あっ……」
血が滴り落ちた。しかし、それよりも恐ろしいことが起きていた。
転倒の衝撃で、雫の耳から補聴器が外れて飛んでしまったのだ。
世界が、完全な静寂に包まれた。
雫の顔が青ざめる。手のひらの痛みも忘れて、必死に床を見回した。補聴器がなければ、何も聞こえない。完全に孤立してしまう。
蓮が眉をひそめた。雫が怪我をしても気にする様子がない。それどころか、何かを探すように床を這い回っている。
「何をしているんだ?」
蓮の声は雫には届かない。彼女は血を流しながら、必死に補聴器を探し続けた。
マネージャーが駆け寄ってきた。
「白雪さん! 何をしているんですか!」
雫は振り返らない。聞こえていないのだ。
「無視するのか!」マネージャーの顔が怒りで赤くなった。「ラフィットのワインを割って、客に怪我をさせて、それで無視とは何事だ!」
「解雇だ! 給料も支払わない!」
雫は相変わらず反応しない。テーブルの下を覗き込み、何かを探している。
そして、ついに見つけた。
テーブルの脚の陰に、小さな補聴器が転がっていた。
雫の顔に安堵の色が浮かんだ。これさえあれば、また音の世界に戻れる。
手を伸ばした。
指先が補聴器に触れようとしたその瞬間——
ガリッ。
誰かの靴底が、無慈悲に補聴器を踏み砕いた。