家に戻ってまずしたことは、窓を開けて空気を入れ替えることだった。
やっと生き返った気がした。
きれいなシーツと布団に取り替えた。
バルコニーの花や植物は、定期的にお手伝いさんが手入れに来てくれるおかげで、元気に育っていた。
詩織は鉢植えの前にしゃがみ込み、一枚ずつ葉にそっと触れた。
「後でまた可愛がってあげるからね。今はもう寝るよ」
隣では引っ越しをしているようだった。道には高級車が何台も並び、そのそばで赤髪の若い男性が指示を出していた。
車はとても高そうだった。詩織はバルコニーの手すりに身を預け、しばらく黙って眺めていたが、隣で指示を出していた男に見られそうになり、気まずそうに鼻先をさわって視線を外し、部屋へ戻った。
太田晴彦は引っ越し業者に、ピアノを丁寧に運ぶよう念を押した。
あれはあの人の宝物だ。少しでも傷をつけたら、逃げるしかなくなる。
ふと顔を上げると、向かいから誰かが自分を見ていることに気づいた。
隣の2階のバルコニーを見上げたが、人影はなかった。たくさんの鉢植えの花や緑が並び、とても目を楽しませてくれた。
持ち主はきっと、非常に趣味の良い人に違いない。
この湖畔の別荘は数年前に建てられたもので、環境は悪くなく、むしろ帝都の中でも高級な地区だ。ただ中心街からは少し離れていて、あの人の資産なら、わざわざここに家を買う必要はないだろう。
まったく、年を取るほど金持ちの考えることが分からなくなる。
詩織が少し昼寝をした頃には、隣もだいたい片付いていた。
晴彦は外に出ながら電話をかけていた。
「全部片付けておいたぞ。俺マジで優秀だろ!ピアノ?お前の宝だって分かってるよ、ちゃんと無傷だ。写真か動画でも送ってやろうか?これで今夜は出てこれるだろ?よし、住所送るから絶対来いよ!知らねぇ奴が見たら、どっかの女のために貞操守ってるって思うぞ?じゃ、俺は先に帰って寝る!」
女は窓際で伸びをしている最中、炎のような色のスポーツカーが道路を疾走していった。
このエンジン音……あぁ、金の匂いがする。
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彰は机に積み上げられた書類を読み終えると、顔つきが恐ろしく険しくなった。数メートル離れた場所にいても、啓介には社長の怒りがじわじわと蓄積していくのが感じ取れた。
眼鏡を外すと、細長い目があらわになった。鼻梁をつまみ、顎のラインが硬く引き締まる。「企画部に伝えろ。これが半月かけて出した資料なら、全員辞めてもらって構わない。星遠に無能はいらん。3日以内に企画をまとめられなければ、責任者は荷物をまとめて出て行け」
魔王が本気で怒った。伊藤秘書は慌てて部屋を出て、指示の実行に向かった。
広いオフィスは一瞬で静寂に包まれた。
紙をめくる音も、「サラサラ」とペンを走らせる音も、キーボードを叩く音も消えていた。
指先でスマホをスワイプすると、見慣れた画面が立ち上がった。
【Echo_of_Shino:ここにいる。 [写真]】
深い眼差しがその数文字に吸い寄せられた。開いた写真には、今日多くの人が話題にした帝都空港の空が映っていた。
まるで油絵のように美しい。
写真には、白く細い指先が少しだけ映り、丸い爪には小さなラインストーンが光っていた。
「盛世エンターテイメント所属のトップ声優・西村志乃、本日正式復帰」
「今夜1時、566275で志乃とお会いしましょう」
時間を確認し、彰は一度家に戻ることにした。
帰国してから休む間もなく会社へ直行し、ずっと仕事に追われていた。家に戻って着替えを済ませ、シャワーを浴びる。
廊下を通りかかった時、髪を拭く手がふと止まり、視線は自然と2階の小さなリビングのピアノへ向いた。