暖かい。
それが最初に感じた感覚だった。頬を撫でる春風の優しさ。鼻腔をくすぐる花の香り。そして、聞き慣れない鳥の鳴き声。
「若様、お目覚めですか?」
可愛らしい声が聞こえた。蓮—―いや、今は別の名前を持つ彼—―は、ゆっくりと瞼を開けた。
「え...?」
目に飛び込んできたのは、見たこともない光景だった。朱塗りの柱、金で縁取られた襖絵、そして床には畳が敷かれている。まるで平安時代の貴族邸宅のような――。
「若様、ご気分はいかがですか?」
振り向くと、そこには十代前半と思われる少女が正座していた。美しい黒髪を丁寧に結い上げ、淡い桃色の小袖を着ている。その瞳には、純粋な心配の色が宿っていた。
「君は...?」
「小菊と申します。蓮麻呂様の侍女を務めております」
蓮麻呂。その名前を聞いた瞬間、記憶が洪水のように押し寄せてきた。
藤原蓮麻呂。藤原家の三男として生まれ、15歳になったばかりの青年。兄二人に比べて陰陽師としての才能に乏しく、家族からも軽視されがちな存在――。
「僕は...蓮麻呂...」
「はい、そうでございます」小菊は安堵の表情を浮かべた。「昨日から熱を出されて、ずっと眠っておられました。お加減はいかがですか?」
蓮麻呂は自分の手を見つめた。前世よりも白く、細やかな指。そして、確かに若々しい手のひら。信じられないことだが、これは現実のようだった。
(本当に...転生したのか?)
「鏡を」
「はい?」
「鏡を持ってきてくれ」
小菊は慌てたように立ち上がり、手鏡を持参した。そこに映ったのは、前世の自分とは似ても似つかない美しい顔立ちの少年だった。黒髪、深い青色の瞳、整った鼻筋。まさに平安美男の典型のような容貌。
「若様...?」
小菊の心配そうな声に、蓮麻呂は我に返った。
「ああ、すまない。少し混乱していただけだ」
「それでは、お食事をお持ちいたします。今日は蓮太郎様と蓮次郎様がお見舞いにいらっしゃる予定です」
蓮太郎と蓮次郎――兄たちの名前を聞いて、蓮麻呂の胸に複雑な感情が湧き上がった。この身体の記憶によれば、彼らは優秀な陰陽師として将来を嘱望されている。一方、三男の蓮麻呂は、いつも二人の影に隠れた存在だった。
「分かった。ありがとう、小菊」
「恐れ入ります」
小菊が退室した後、蓮麻呂は深く息を吐いた。
(異世界転生...まさか本当にあるとは)
前世の記憶と現世の記憶。二つの人生が混在する不思議な感覚に、蓮麻呂は戸惑いを隠せなかった。しかし同時に、心の奥底で小さな期待が芽生えていることも感じていた。
(この世界なら...本当の陰陽術が使えるかもしれない)
窓の外では、桜の花びらが舞い踊っている。まさに人生の新たな始まりを祝福するかのように。
内容のブラッシュアップのため編集を行っています。今後の話も修正を行う予定です。