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第1話:命の恩人
[雪音(ゆきね)の視点]
また、この話か。
リビングのソファに座りながら、私は冬夜(とうや)の言葉を聞き流していた。もう一ヶ月も同じことを繰り返している。
「雪音、聞いてるのか?」
冬夜の声が少し苛立ちを含んでいる。振り返ると、彼はいつものように真剣な表情で私を見つめていた。
「聞いてるよ」
短く答える。これ以上何を言えばいいのかわからない。
「彼女は昔、命を懸けて俺を助けてくれた。だから、今度は俺が彼女の願いを叶える番なんだ」
冬夜はそう言って、テーブルの上に置かれた書類を指差した。人工授精の同意書。花咲院(はなさきいん)紅(べに)という女性の名前が記載されている。
余命一年。
その事実が、私の心に重くのしかかる。
「でも......」
言いかけて、やめた。何を言っても無駄だということを、この一ヶ月で嫌というほど思い知らされた。
冬夜は立ち上がり、ベランダへ向かった。私も後を追う。
夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
「冬夜.....来月、私たち結婚するんだよね?でも今、あなたは別の女性と子どもを作ろうとしてる。私は.....私は一体、何なの?」
声が震えていた。
冬夜は振り返らずに答えた。
「君が俺を愛してくれてるなら......理解してくれると信じてた」
愛してる。
確かに愛してる。二十年来の付き合いで、恋人として五年。でも、冬夜はいつも秘密主義だった。心の奥底を見せてくれたことなんて、一度もない。
「理解って......」
そのとき、冬夜の携帯が鳴った。
着信音が響くと、彼の表情がぱっと明るくなった。まるで別人のように。
「もしもし?」
電話の向こうから女性の声が聞こえる。紅だろうか。
「ああ、大丈夫だ。今すぐ行く」
冬夜は電話を切ると、私の方を振り返った。
「もう少しちゃんと考えてみて。俺は君を愛してる。それは変わらない」
そう言い残して、彼は急いで家を出て行った。
一人になったリビングで、私はソファに崩れ落ちた。
愛してる、と言いながら、別の女性のもとへ駆けていく。
これが愛なのだろうか。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。冬夜が忘れ物でもしたのだろうか。
ドアを開けると、そこには誰もいなかった。足元に小さな封筒が置かれている。
「紅」
差出人の名前を見て、心臓が跳ね上がった。
震える手で封筒を開ける。中には一枚の写真が入っていた。
その瞬間、世界が止まった。
写真に写っているのは——
立っているのがやっとだった。