——吠え声が近い。
湿った風が一度だけ向きを変え、茂みの奥で黄色い目がずらりと灯った。
狼型の魔物が群れになって地面を削る。
上空では黒い影が輪を描き、羽音が重なっていく。
「来るぞ」
折れた木剣を持ち直す。柄のささくれが掌に刺さる。肩は治ったが、体力は底。血の匂いもまだ薄く残っている。
足元で
「ぷるん」
「スミオ、下がってろ!」
スミオは言うことを聞かず、前に出た。丸い体を広げるみたいにぷるぷる震わせ、俺の足首にしがみつく。
裾をぐいぐい引っ張って、前へ出すまいと必死だ。
「……やる気は買う。けど俺が——」
「下がって」
すっと、横を銀の影が通った。エリカだ。白いドレスの裾が泥に触れそうで触れない。俺とスミオの前に、一歩だけ出る。
「ちょ、危ない——」
「大丈夫」
短く、それだけ。次の瞬間、彼女の前に光の紋章がひらく。
空に書いた線が、そのまま図形になって止まったような整った円と直線。
音はないが、空気の張りが変わった。
——パッ。
小さく指を鳴らしたみたいな音。紋章から光の粒が飛び出す。
ひとつ、ふたつ、いや数え切れない。
光弾は真っ直ぐ走り、狼の目と喉と心臓に吸い込まれた。
命中のたびに明滅が起き、土がわずかに跳ねる。音は小さいのに、迫力だけが大きい。
「な……」
上空で黒い影が弧を描き、急降下。嘴を開き、爪が光る。
エリカの足元から透明な壁が立ち上がる。
薄い膜のような結界が、突っ込んできた魔獣を受け止めた。
キィン、と澄んだ音。影は砂のように崩れて消える。
「ひとまず、ここは私が」
エリカが手を広げる。紋章が二つ、三つと重なった。
足元に薄い光の線が走り、幾何学模様が森の床に描かれていく。
狼たちが駆けるたび、その線を踏む。
——爆ぜる。
足元から軽い破裂音と細い光柱。土が跳ね、草が焦げる。敵だけが正確にはじき飛ばされ、こちらには熱も灰も来ない。
「すげ……」
最後の飛行魔獣の群れが一斉に降下する。エリカは視線だけで追い、右手を斜めに払った。
空に小さな点が打たれ、照準になって光の矢へ変わる。
一矢ごとに翼の骨だけを奪うみたいに、影が落ちていく。
落下の衝撃は結界が吸収し、地面は凹まない。
派手なのに、静かだ。
狼が一匹、死角から跳ぶ。スミオが短い助走でポンと跳ね、鼻先を「つん」と突いた。
ほんの一拍のズレ。エリカの左手が短く動き、光弾が一点。狼は草むらに沈む。
「スミオ、ナイス」
「ぷるん!」
調子に乗ったのか、スミオはエリカの足元をぐるぐる回り、今度は彼女のドレスの裾をちょいちょい引っ張る。
危ない、絡むな——と思った時には、もう戦いは終わっていた。
森が静かだ。羽音も唸り声も消えた。
倒れた魔物は光の粒になって空気へ溶ける。
血の跡は葉にも土にも残らない。
ここだけ、空気が澄んでいる。
「……強すぎるだろ」
素直に口から出た。エリカはきょとんと指先を見る。
「体が勝手に動いたの。気づいたら、みんな……消えてた」
彼女の声は落ち着いているのに、指先が少し震えていた。
「怖かったか?」
「少し。私、どこまで出来るのか……自分でもよくわからないから」
「それでも助かった。ありがとな」
言いながら、折れた柄を持ち上げて見せる。
「見ろよ。情けねぇ木剣だけど……初めて勝てたんだ。捨てられるかよ」
エリカはほんの少し眉を下げる。
「痛いのは、もう?」
「平気。さっきの治癒、効いてる。息しても刺さらない」
「よかった」
その一言で、胸の重さがふっと抜けた。俺は折れた柄を背に回し、結び紐で腰に固定する。
スミオが俺の指を鼻先で「つん」。
もっと言え、と言わんばかりにぷるぷる震える。
「はいはい。スミオもナイスだ。さっきの突きらは効いた」
「ぷるるっ」
得意げに膨らんでから、今度はエリカの髪へ向かって弾み——慌てて戻ってきた。
さすがにそこはやめとけ。
エリカがしゃがみ、掌で受け止める。
「ふふ、かわいい」
「こいつすぐ調子に乗るぞ。今の一撃で完全に舞い上がってる」
「舞い上がるくらい、いいことしたもの」
エリカが頬をゆるませる。スミオは俺の方を半分だけ振り返り、ドヤ顔をする。
「なあ、エリカ」
「なに?」
「俺じゃ、守れないかもな」
本音がするりと出た。彼女の方が何倍も強い。俺は、俺なんて——
「でも、私を呼んだのはあなた」
遮るみたいに、真っ直ぐ。ノイズのない瞳。
「……まあ、たしかに。悪くないな、こういうのも」
「こういうの?」
「俺が前に出て殴るんじゃなくて、横で支えるとか——」
「横で応援?」
「いや、それも違う」
「じゃあ後ろで見守る?」
「見守るだけは嫌だな」
「わがままね」
「ぷるん!」(スミオが勝手に挙手)
「お前もか」
「ぷる」
三人で、少し笑えた。
森の光が変わってきた。頭上の木々の間から昼の陽が差す。
さっきまでの痕跡はどこにも残らない。風が通ると、草がさわさわと素直に答える。
「——街に、戻る?」
エリカが何気なく聞く。俺は少し考えて、首を横に振る。
「戻る気は、ないな……今は」
「じゃあ、どこへ」
「どうするか——」
言いかけたところで、彼女が先に答えを置いた。
「それなら、いろんな街を見てまわろうよ!」
歩きながら空を見上げる。日差しが髪に当たり、プラチナがふわっと光る。
「あなたと私の居場所、きっとどこかに見つかるよ」
「ぷるん!」
スミオが跳ぶ。エリカは笑って頷く。
「あ、スミオもね!」
「お前、今ちょっと忘れてたろ」
「忘れてない。ちゃんと三人分、考えてる」
「ぷる、ぷる」
ドヤぷる二連。俺は肩の力を抜き、ほんの少し笑った。
「……ああ、そうだな。行こう」
剣の柄を軽く叩き、歩幅を合わせる。
エリカが一歩前に出る。スミオはその間を行ったり来たり、時々木の根につまずいては、ぷにっと弾んで立て直す。
「おい、気をつけろよ」
「ぷる」
「それ、返事か?」
「たぶんね。ふふ、かわいい」
エリカがくすくす笑う。陽の筋が道の先まで続いている。森の出口は、思ったより近いのかもしれない。
「ねえ、ユウキ」
「ん?」
「さっき怖かったかって聞いたでしょう。
——私、自分のこと、やっぱり怖いの」
「……そうか」
「でも、あなたが『大丈夫だ』って顔をしたから。だから、私も大丈夫だって思えた」
歩きながら、とても小さな声で。俺は答えを探して、見つからなくて、代わりに前を指さす。
「じゃあ、次は俺が怖い顔したら。お前が『大丈夫』って言ってくれ」
「いいわ。約束」
「ぷるん!」
スミオが間に割り込み、二人の指先に触れる。ぷにっと柔らかい感触。三人で笑って、足を進めた。
森を抜ける。音が、いつもの自然の音に戻る。魔物の残骸は光に溶け、木漏れ日が降りる。昼の色だ。
「さて」
「さて?」
「飯。まずは飯」
「ぷるっ!」
「なによそれ」
くだらない会話が、妙に楽しい。夜会のきらめきも、ギルドの笑いも、父の“無”も、全部、距離の向こうにぼやけていく。
三人の足音が、陽の射す森を抜けて遠ざかっていく。
——俺たちの居場所は、まだ無い。だから探しに行く。必要とされるのを待つんじゃなく、自分たちで繋ぎ直す。その最初の一歩を、もう踏み出した。
「行くか」
「うん」
「ぷるん!